企業の誕生と成長・発展

大かたの会社はベンチャー企業から

今日の経済を支える会社、すなわち営利企業という社会的組織は産業革命とほぼ同時並行的に発生し発達した。

今日の会社の起源はおおよそ次のように分けられる。(1)個人の起業(いわゆるベンチャー企業など)・・・三菱商事、東芝、味の素、パナソニック、トヨタ・グループ、シャープ、花王、オムロン、ソニー、ホンダ、キヤノン、リコー、ソフトバンク、リクルート、セコム、楽天など、(2)老舗、家業の発展・・・三井グループ、住友グループ、武田薬品、鹿島、伊藤忠、セブン&Iなど、(3)大会社の子会社、分社化・・・三菱電機、富士通、富士フィルム、日立、東レなど、(4)複数会社の共同出資・・・NECなど、5.国策事業、官営事業の民営化・・・新日鉄住金、三菱重工、NTT、JRなど。これらの中で最初から資本金が大きく、大組織の会社(3、4、5)を除いて、いかなる大会社も最初は小規模零細、町工場や個人商店などから始まった。日本でも、ベンチャー企業オリジンの会社(1)は想像以上に多いのである。江戸時代に起源を持つ老舗・家業型(2)も少なくない。

個人が会社を起こす起業(開業)の動機は、自分が理想とする事業を自らの手でやりたいと思うことに尽きるだろう。成功している事業を見て、これに倣おうとする例も極めて多い。とくに、日本の戦前での起業には、欧米からの輸入製品の国産化を目的としたものが非常に多かった。

しかし、自分の夢やアイデアを実現したいという思いを抱いて事業を興した例は日本においても少なくない。「市場創造型」イノベーションに成功して事業の基盤を築いた。上記の(1)で挙げた企業はすべてその類である。つまり、影響の大きさやタイプには違いがあっても、最初のイノベーションに成功して事業経営の基盤を築き、そこから発展したのである。

 

企業はなぜ成長・発展できるのか

『企業成長の理論』を著したE.ペンローズは、企業は生産資源の集積体として、無限に成長していく生きた組織体であって、成長は生産に関する手段、資源、知識の未活用部分を活用した結果だと言う。その成長にとっての阻害要因を取り除くのが経営者の機能で、事業領域にとらわれない多角化は当然の帰結だし、多角的事業構造は未利用資源を活用する上で有功に働くと論じた。

経営コンサルタント、R.フォスター(マキンゼー社)は『イノベーション』の中で、ある製品、製法を改良しようとして投じる費用とその経済的効果は一般にSカーブ(ロジスティック曲線)を描く。どの技術にも、初期の誘導段階と後期の成熟段階があることを実証的に示し、企業を永続的に成長させるためには、技術、市場、技術を常に新しいSカーブに乗り換えるイノベーション、すなわち限界突破の経営が必要だと言った。

川口達郎(東レ)はその著『企業成長とイノベーション』において、日本の代表的な会社、40社の成長・発展の歴史を詳細に分析して、次のような結論を出した。すなわち、大型新製品による企業の売り上げ増は、前半はロジスティック曲線で、後半は定額成長曲線で近似できる。産業や企業はロジスティック曲線における飽和状態をわずかに上回って成長することができるが、成長率は確実に鈍化し、大型新製品の開発頻度をどれだけ増やしても、30年で成熟点に達する。しかし、その成長曲線から不連続に飛躍して新しい成長曲線に乗る企業もある。それらは必ず新しい事業(製品レベルではない)の創出によっている。川口の研究は、プロダクト・イノベーションと企業の成長との関係の間にある経験則を40のサンプルから導き出した画期的なものであった。

日経ビジネスの『会社の寿命』は綿密な検証によって“会社の平均寿命は30年”と言った。寿命とはピーク期を言い、存続期間ではない。川口の30年成熟説と意味は同じである。そして、“延命には変身が不可欠”と結論している。変身とは社会の変化に対応して事業の中身を変えて行くことである。川口が指摘したように、単なる新製品の開発だけでは、企業の成長・発展は続かないのである。

”企業を永続的に発展させるためには、自らがイノベーションを行う起業家の集団であり続けなければならいない、これが資本主義的企業の宿命である”、これがシュンぺータの企業経営者への最大のメッセージである。

 

企業のイノベーション機能が研究開発部門

近代的な会社組織が成立したのは産業革命が進んだ19世紀半ば以降。世界の企業で最初に研究所を設置したのはドイツの化学会社であった。ドイツの化学会社は大学での研究成果、合成染料や合成医薬の事業化を目的として作られた会社が多い。このような経緯で、大学研究者と企業技術者が共同で研究開発を行うことは初めから活発だった。アンモニア合成のハーバー・ボッシュ法の開発もこのスタイルである。

とくに、企業の研究所は大学の研究室よりもはるかに大規模に組織的に研究開発を実行することに長けていた。 “商業的な目標に向かって、研究者、技術者を大量に動員して集中攻撃をかける、これが当時のドイツ企業の研究のやり方の特徴だ”と言われていた。

それを真似たのがアメリカのデュポン社であった。

 

デユポンの中央研究所・・・“ドイツ人のようにスマートになろう”

アメリカのデュポン社は火薬製造会社から出発した化学会社。第1世界大戦前後から積極的な企業買収で総合化学会社に変身した。その当時のトップマネジメントは中央研究所の設立を決めた。当時、世界最強の技術力を誇っていたドイツの化学企業を見習ったのである。

研究所開所式のときに社長は言った。“ドイツ人のように利口になろう、とにかくやってみよう” と。MITのカローザスなど一流の研究者を多数招いた。これによって研究開発重視の経営思想が確立された。強力な研究開発を生かして次々と新製品を開発し、新しい市場を開拓した。とくに、高分子化学における業績は顕著で、ナイロンの発明で合成繊維工業を興し、テフロンを始め高性能ポリマー材料を数多く開発して、プラスチック工業の高度化に貢献した。こうして、20世紀中ごろには、化学技術の進歩をリードする世界最大の総合化学会社となった。〔D.Hounshell,et.al,『Science and Corporate Strategy』 Cambridge Univ.Press,1988〕

マーケットの成熟と高度化が進んで、需要側がイノベーションを引っ張る「デマンド・プル」の時代になると、研究開発機能とマーケティング機能の連携が企業のイノベーションの苗床と考えられるようになった。後に詳しく述べるが、「第3世代のR&D」は経営戦略との一体化とマーケティング部門との連携を、さらに「第4世代のR&D」は顧客とのコミュニケーションを強く訴えている。

 

生き残り戦略の違い

最近の半世紀間の市場の変化はまことに激しかった。新しいデザイン・コンセプトの製品の出現によって、歴史のある製品がほとんど消えてしまった例は大変に多い。たとえば、レコード、最近では白熱電球。デジタル化で磁気テープもフロッピーディスクも写真フィルムも使われなくなった。この結果は、とくにこれらの製品を作っていたメーカーに大きな打撃を与えた。

日本の企業経営者には、事業の長期的なライフサイクルを常に意識して経営に当っていた人が少なくなかった。たとえば、東レが合成繊維事業に本格参入しレーヨン事業から撤退したころのトップ田代茂樹(後の名誉会長)は、“合成繊維がレーヨンに取って替わったが、合成繊維もいつまでも続くとは限らない”と、基礎研究所を作って新しい事業のタネ探しを託した。研究部門にそのような役割を担わせている会社は実際に多い。

カメラ事業から始まったキヤノンは、光学と精密機械技術の応用を軸に、新しい事業を開発して発展してきた。写真フィルムの市場の消滅でイーストマン・コダックは凋落したが、富士フィルムは自社の技術の強みを活かして、見事に生き残った。このような自社のコア・コンピタンスを活かして変身を遂げ、生き残った企業は多い。このような「持続的変身」のためにも、研究開発を基軸とするイノベーション戦略が必要不可欠なのである。

 

キヤノン…カメラ技術を中核に戦略的に事業を多角化

キヤノンは打倒ライカを標榜して設立(1933年)されたベンチャー企業。キヤノンはカメラ・メーカーとして成功したが、カメラだけでは将来の成長は期待できないと考えた。1962年、カメラの基本技術(光学技術と精密機械)を基盤に新しい事業の開発構想「第1次長期経営計画」を策定、事務機器分野への進出を決定した。当時のキャッチ・フレーズは“右手にカメラ、左手に事務機”。長期計画は5年ごとに第3次まで作られ、計画に従って複写機事業を育てていった。

1976年「第1次優良企業構想」を策定、事業部制、機能別システム検討委員会などマネジメントの改革にも取り組んだ。1982年に第2次を作成している。1980年には「1兆円企業構想」を、87年に「チャレンジ150」を、88年に「グローバル企業構想」を、96年には「グローバル優良企業グループ構想」を策定した。現在は「グローバル優良企業グループ構想」のフェーズ4を遂行中である。キヤノンはこのように、節目ごとに経営戦略方針を社内外に明示して経営を展開してきた。

その結果、カメラから始まって半導体露光装置、複写機、情報通信機器、プリンターなどを事業化し、売り上げは85年度の5千億円から約30年後の現在は7倍強の約3兆7千億円に達している。同じカメラ・メーカーのニコンが売り上げ5千億円程度に止まっているのに対して大きな格差が生じた。

キヤノンの新事業開発は5つの原則に基づいて進められた。その第1は「現行事業の基盤強化」、第2は「現行事業との相乗効果の追求」、つまり、カメラ事業の力をフルに活用すること。第3が「新事業の選択条件(市場成長性+競争優位性)の確保」、第4が「新事業展開領域のトータルな認識と勝ち目のある領域からの参入」、第5が「基本手順を踏んだ展開、事業評価と戦略の見直し」。キヤノンの成功は経営の基本原則に則ったものであった。〔キヤノン〕

しかし、欧米の企業には、「持続的変身」よりも、連続性のない大胆な変身の例が目立つ。GE(アメリカ)はその代表的な例として知られているが、もっとも大胆な変身を行ったのはノキア(フィンランド)である。

 

ノキアの構造改革・・・ゴム加工から携帯端末事業に大化け

1865年設立のフィンランドの製紙会社ノキアが、1967年にゴム製造加工会社と電話電信ケーブル製造会社を吸収合併して、今日のノキアとなった。1970年代、成長分野に事業構造を転換する方針を採り、電話電信ケーブル事業の経験を活かして家電(テレビなど)、電気通信分野(交換機用デジタル・スイッチなど)を立ち上げ、これらに重点を移した。さらに80年代には、コンピューターや携帯電話事業にも進出した。フィンランドは人口密度が著しく低く、有線電話網が行き届き難かったので、携帯電話が急速に普及する事情があった。ノキアはそこに目を付けた。この時期、同社は先端技術の開発で競争優位を確保する戦略を採った。

90年時点での事業の構成は次のとおり:家電=31%、情報システム=13%、製紙=10%、形態電話=10%、通信機器=10%、ケーブル=9%、ゴム製品=6%。

1990年代、深刻な経営危機に陥り、多角化を大幅に見直して、コンピューター、テレビなどから撤退し、携帯電話など電気通信分野に集中する。その結果、2000年代には、携帯電話=80%、通信機器関連=20%になり、携帯端末では、シェア世界1位になった。一方で、ノキア伝統の製紙、ゴム製品、ケーブルはすべて姿を消し、家電事業もなくなった。〔ノキア〕

以上のように、市場環境の変化に対する企業の行動は欧米の企業と日本の企業の間には、少なからぬ違いが感じられる。ボストン・コンサルティングGのプロダクト・ポートフォリオ・メソッド(PPM)のような経営戦略理論は、日本の企業では欧米ほどは尊重されていないようである。

 

図表3-1-1 日本企業と欧米企業の違い(作成:原 陽一郎)

日本の企業欧米の企業
経営戦略顧客重視と市場ニーズの先取り
漸進的な構造改革
持続的な変身
経営戦略理論重視
・・・資本の効率優先
大胆な構造転換
イノベーション市場高度化への対応
・・・新製品開発、差別化
生産性向上の追及
市場創造型

 

日本の企業は顧客との関係を大事にし、市場ニーズの高度化に積極的に対応しようとする経営姿勢に大きな特徴がある。日本の企業と欧米の企業との間には、少なくてもイノベーションの方向には違いがある。

【目次】イノベーションとは何か

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