イノベーションに好意的な環境

社会の条件

シュンペータが見抜いたとおり、イノベーションは資本主義経済固有の現象である。資本市場が健全に機能していること、市場が自由であること、経済活動に対する法的な規制が少ないこと、教育の水準が高いこと、科学技術の水準が高いこと、知的財産権が確立されていること、表現の自由が保障されていることなど、今日の自由主義経済の先進国の条件がイノベーションには最低、必要と考えられている。さらに、人々が冒険心と創造性に富み、社会が新しいことに寛容であることも重要。

前章で詳しく観察したように、イノベーション、すなわち新製品、新サービスあるいは新ビジネスを創出するためには、その基本コンセプトに対応した経営資源(資金、人材、技術、経営ノウハウ等)を集めて開発を行う必要がある。起業家の周辺には起業家に対して好意的な場が形成され、その場を通して、経営資源の調達が行われ、必要な専門家の支援も得られる。これを一般に「イノベーション・プラットフォーム」と呼ぶ。

企業内では組織機能がプラットフォーム機能を果たし、マネジメントを通じて社内の蓄積された経営資源は効果的に動員される。これがMOT(技術経営)の中心課題である。さらに、必要に応じて材料、部品等のサプライヤーやユーザーを含む関連企業間の連携、共同開発などが行われる。

一方で、独立した個人の起業家にとっては、起業家がコントロールできる組織機能は存在しない。従って、個人の起業家にとって、必要な経営資源が集まって、開発と事業化を支援してくれる社会システムが不可欠である。この社会的システムは、ベンチャーキャピタル、インキュベーター機能、大学等の公的研究機関、専門的な助言サービスなどで構成され、起業家を積極的に支援するものでなければならない。

イノベーションにとって、その国の有する社会的な環境構造やポテンシャルが少なからぬ影響を与えると考えられる。このような問題意識からナショナル・イノベーション・システムに関する研究が進んだ。

 

クラスターの意義

マイケル・ポーターは産業の国際優位に関する膨大な研究から、国や地域のネットワーク化された産業組織に競争力の源泉があることを見出した〔M・ポーター『国の競争優位』〕。彼はこれをクラスターと名付けた。3.3で論じたように、産業の国際優位は市場高度化対応型イノベーションの強さによる。クラスターがこの種のイノベーションに有利な環境を作っているからと考えられている。

クラスターとは、ある特定の分野において、相互に結び付いた企業群と関連する種々の機関からなる地域的に隣接したグループであって、構成する企業群や機関は共通性と補完性で結ばれているものとポーターは説明している。地理的な近さが一つのポイントであるが、一都市から国全体あるいは隣接する数か国に及ぶネットワークまであり、距離的には200マイル(320キロ)くらいまでと幅がある。確かによく知られているシリコン・バレーや台湾の新竹などは比較的狭い地域に企業や研究機関が集積している。

ポーターはクラスターのメリットとして、(1)生産性の向上、(2)イノベーション上の優位性、起業化がし易いこと、(3)取引コストが低く、リスクの分散ができることなど、を挙げている。日本の地場産業についても、緊密な分業による生産性の高さ、親密な人間関係による取引コストとリスクの低さが競争優位の原因と言われてきた。

特徴のあるクラスターがどのようにして出来て、競争優位を作りだしているのか。

 

シリコン・バレー…大学が作ったイノベーション・プラットフォーム

シリコン・バレーはスタンフォード大学のいち教員F・ターマンが作り上げたものと言っても過言ではない。スタンフォード大学の周辺、現在のシリコン・バレーといわれる地域は、スタインベックの「怒りの葡萄」の舞台となった極めて貧しい農村地帯だった。

スタンフォード大学は1885年、開学。スタンフォード大学はカリフォルニア州の貧しい農村地帯の真ん中で、周辺に卒業生を受け入れる企業はまったくなかった。

1925年、フレデリック・ターマン(ヴァネーヴァ・ブッシュの教え子)が工学部教授に就任、彼は地元に産業を作りたいと考え、弟子のヒューレットとパッカードに夢を託した。ヒューレット・パッカード社は1939年、スタンフォード大学のすぐ近くで創業した。そのとき、ターマンは創業資金を支援している。

ターマンは、その後、ハーバード大学でブッシュの下で軍事研究に協力し、戦後、再びスタンフォードに戻って、1945年、工学部長に就任。彼はその権限を活かして、電気工学科を充実し実用性の高い先端技術の研究を目指した、国防関係の受託研究機関スタンフォード研究所SRIを設立、産学共同プログラムを広く展開、企業が大学の施設を利用できる産学連携の仕組みを作り上げた。

さらに、大学に隣接する工業団地スタンフォード・インダストリアル・パークを造成。ここにGE、イーストマン・コダック、ロッキードなどが進出。1956年には、ターマンの招きに応じてショックレーも半導体研究所を設立したが、その翌年には、ロバート・ノイス、ゴードン・ムーアら(8人の裏切り者)がスピンオフし、フェアチャイルド半導体を設立してIC製造技術を確立してテキサス・インスツルメントとクロス・ライセンス。ICの生産拠点に。空軍、NASAから受注。

大学の協力的な姿勢を評価して、60年代には、IBMがサンノゼに、ロッキード宇宙開発部門がサンーヴェールに進出。ハイテク型企業の集積が形成され始めた。

アーサー・ロックがサンフランシスコでベンチャーキャピタルを設立。スピンオフを支援。68年、ノイス、ムーアが再びスピンオフしてインテルが誕生。日本の電卓メーカーの要請に応じて、71年、マイクロプロセッサを開発。

71年に全米証券者協会がNASDAQを開設、“8人の裏切り者”の2人が大型のベンチャー・キャピタルを設立。産学連携、インキュベーター機能に加えて、起業家に対する資本市場が充実し、さらに、ノイスら8人の裏切者の影響で組織を超えて技術を共有する自由な風潮が生まれた。

このような環境から、74年、ホームブリュー・コンピュータ・クラブが誕生し、ヒュレット・パッカードからスチーブ・ウォズニアックらがスピンオフし、76年にジョブズとタイアップしてアップル・コンピュータを創業。パソコンを生んだ。78年、IBMからスピンオフした技術者がオラクルを設立。82年、マイクロシステムズ設立。〔枝川公一『シリコン・ヴァレー物語』〕

シリコン・バレーはブッシュの弟子ターマンのリーダーシップでスタンフォード大学が開墾した畑である。

 

イタリア・ファッション・クラスター…デザイナーのサークルから

アパレル・ファッションでは、古くからフランスが世界市場を支配していたが、今日ではモノづくりではミラノを中心とした北イタリアが圧倒している。フランスの有名ブランドも大半はイタリアで生産されている。

イタリア・デザイナーたちによる高級注文服産業を作り上げる目的で、1951年、ジョバンニ・パティスタがイタリア女性クリエータ協会を設立。ファッション・ショーを開催。世界で初めて既製服も出展した。同じ頃、アキーレ・マルモッティが手つくり服の工場生産を発想、家族でマックスマーラ社を設立した。1960年代、これが職人技を活かした中規模工場での服作りの台頭を促した。

1955年、ルチアーノ・ベネトンは自宅でニットの生産を開始、デザイナー企画の服を作り、ファクトリー・ブランドで販売。ピエール・カルダン(イタリア)はパリと提携して既製紳士服事業を開始(1961年)、ヨーロッパ各国にライセンスし(1963年)、ファッション・ビジネスの一つのモデルとなった。〔東レ・イタリア駐在員〕

フランスとは異なる感性表現で、1980年頃から日本でもイタリア・ブームが起こり、今でも人気は高い。

 

台湾半導体産業…産学官の戦略的な連携とアメリカ業界の協力

台湾新竹の先端的な半導体の産業集積は一貫した構想と緻密な計画の下に国の政策的支援と産学の緊密な連携、それにアメリカの半導体業界の積極的な協力によって構築された。ファウンドリを中心に多数の回路設計会社、装置メーカー等が分業ネットワークを組み、大学や研究機関が技術的サポートと人材育成を担当し、国が立地する企業を優遇する政策を展開する、世界でも珍しい人工的なクラスターの成功例である。

1966年、ジェネラル・インスツルメンツ(米)が高雄にトランジスター組立工場を建設。次いで、テキサス・インスツルメンツ(米)、フィリップス(オランダ)等のIC組み立て工場が進出。これに刺激されて台湾企業も技術導入によってIC組立事業を開始した。国立交通大学等でIC製造に関する研究がスタートし、ベンチャー企業が2社設立。

こうした動きを受けて、1972年、政府が「近代工程技術検討会」に半導体産業の可能性を諮問、そこからRCA(米)の研究所長をしていた藩文淵に半導体産業育成構想の策定を依頼した。藩は台湾出身でアメリカ在住の専門家の協力を得て、アメリカから全面的に技術導入を行う構想を提案。1974年、藩の尽力でアメリカの企業、大学等で指導的立場にある台湾系技術者を集めて「電子技術顧問委員会(TAC)」が設立。TACは電卓、デジタル時計用を意識してCMOS技術をRCAから導入することを決定。これに呼応して、政府は電子工業研究発展センター(ERSO)を設置して事業化支援を始めた。

1975年、第1期電子工業研究発展計画(習得期)に着手。技術の習得を開始。1977年、ERSO内のパイロットプラントが稼働を開始、量産の実証と販売始めた。

1979年、第2期電子工業研究発展計画(技術導入期)に着手。製造技術のレベルアップ、CAD技術、フォトマクス技術を導入。1980年、新竹科学工業園地(HSIP)の建設と電力、用水の整備。同年、EDSOからスピンオフして官民ジョイントベンチャー聯華電子UMCが創業、ERSOから専門家が移籍し、技術者の教育訓練を実施。解放されたアメリカ電話機市場に向けて電話機用ICを大量に輸出し、聯華電子が好業績を上げる。これが起業意欲を刺激し、ERSOからのスピンオフが活発化。

1982年、太欣半導体SYNTEC設立。されに太欣半導体からのスピンオフによって多数のベンチャー企業が生まれ分業ネットワークが形成された。

1983年、第3期電子工業研究発展計画(自主技術開発期)に着手。科学技術顧問会議STAGで、VLSI技術の開発を決定、行政院長愈国華が全面的支援を約束。1983年、EDSOでVLSIプロジェクトがスタート。台湾系設計会社バイテリック(米)と国際的共同研究契約を締結、聯華電子もVLSI開発で台湾系設計会社モーセル(米)等と共同開発を実施。共同設計センターを設立し設計企業への技術支援を強化。ASIC技術を民間企業と共同開発。

張忠謀(ジェネラス・インスツルメンツ(米)社長)を工業技術研究院長に招聘、張はVLSI製造の共同利用施設(世界で初めての試み)の設置を提唱。1987年、受託加工生産(ファウンドリ)専門の会社、台湾積体電路公司TSMCを設立、フィリップ(オランダ)と張が共同で経営を担当。ERSOから大量の技術者が移籍するとともに共同開発体制を確立。台湾積体電路公司は世界で最も利益率の高い半導体メーカーに成長。周辺に設計専門のファブレス企業が多数発生。ERSOから台湾マスクTMCがスピンオフ。

1988年、第4期電子工業研究発展計画(キャッチアップ期)に着手。98年、ナノデバイス研究所NDLを設立し、交通大学を中心に産学官コンソーシアムで半導体製造装置の開発推進し、ERSOに協力。科学技術顧問会議でDRAM量産化かASIC技術の拡大かを議論し、世界的なDRAM不足に対応してサブミクロン半導体量産技術の開発を決定。90年、ERSOに民間企業、大学が参加してサブミクロン加工技術開発プロジェクトをスタート。ERSOからのスピンオフで世界先端積体電路公司を設立し、開発プロジェクトの成果を全面的に移管し事業化。

1991年、産業高度化促進条例を制定。とくに新竹に対して所得税の5年間減免、輸入税減免、輸出に対する営業税・貨物禅の減免、低利融資、研究開発奨励金、研究開発費税学控除など有利な投資インセンティブを提供した。〔青山修二『ハイテク・ネットワーク分業』〕

新竹サイエンス・アークは順調に発展を続け、世界的な半導体供拠点としての地位を確立した。この地域だけで台湾製造業の出荷額の10%を占めている。

日本でもこの10数年の間に、産業振興策として、「産業クラスター」(経済産業省)、「知的クラスター」(文部科学省)制度が展開された。両制度とも、地域の大学、公的研究機関と周辺企業同士の連携によってイノベーションが活発に興ることを目的とした施策であった。しかし、その成果は必ずしもはかばかしくはない。仕組みだけできても、イノベーションが活性化するわけではないことを示唆している。

【目次】イノベーションとは何か

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