社会に大きな影響を与えたイノベーションの実際

市場創造型のイノベーション

クラインのモデルも児玉のモデルも、企業レベルでのイノベーションの事例の研究に基づいている。複数の企業や公的な研究機関等を巻き込んだ規模の大きいイノベーションの場合はどうだろうか。

これらのイノベーションの場合は発端から実現までにかなりの長期間を要した例が多い。たとえば、パソコンでは20年以上、インターネットの実用化も10年以上、液晶ディスプレイも約10年。期間が長かっただけに、その間に関与する企業や研究機関も多様、そのプロセスは様々な要素が絡み合っている。また、イノベーションの普及・発展の過程で、イノベーションを巡る企業間競争も激しく展開される。そのようなダイナミックな様相も観察する必要がある。

社会全体や市場に大きな影響を与えたイノベーションの発端から普及発展までの全プロセスを具体的に辿ってみた。

パソコン【市場創造・ハイテク型】…一人のビジョンと一人のコンセプトから

パソコンの開発と普及はIT社会を切り開く画期的なイノベーションであった。その原点はヴァネーヴァ・ブッシュが描いた夢であった。4つの異なる革新技術…グラフィック・ユーザー・インターフェース(GUI)、マイクロプロセッサー、情報記録・再生媒体、アプリケーション・ソフトの融合が必要であった。いわゆるオープン・イノベーションの典型的事例である。

予兆的な事象、発想のきっかけ

科学技術の発展は膨大な新知識を生み出したが、その中から必要な知識を効率よく探し出すことへのニーズは拡がっていた。計算機械、情報の関連付けには電話自動交換やパンチカード、コンパクトな記録媒体にはマイクロフィルム、情報の表示にはテレビが生まれてきていた。

ビジョン

1945年、ヴァネーヴァ・ブッシュ(アメリカの科学者)は人科学雑誌に発表した「As We may think」と題する小論文で、記憶機能を拡張する装置MEMEXを開発すべきだと提唱した。これがパソコンを導き出したビジョンである。

要素技術の研究開発、大学等の役割

この論文に触発されて、“MEMEX”の発明に賭けようと考えた若者が何人か現れた。サザーランドはコンピュータによる図形処理技術(コンピュータ・グラフィックなど)、ダグラス・エンゲルバードは対話型の入出力技術(ビットマップとマウスなど)などグラフィック・ユーザー・インタフェス(GUI)を構成する要素技術の開発に取り組んだ。ブッシュはNSF等を通じて彼等の研究に資金を提供して積極的に支援をした。

インテルは1971年、日本の電卓メーカーの依頼を受けて、2進法で計算するコンパクトな論理回路マイクロプロセッサーを開発した。これが後にパソコンの心臓部となった。

この頃、大型の事務用、技術計算用コンピュータは広く職場に普及していた。コンピュータで遊びたい、ゲームをしたいと熱烈に思うでコンピュータ・マニア(ハッカー)が増え、ベンチャー企業MITS(米)は彼ら向けのマイコン・キッド「アルテア」を市場に出し、一種のブームを呈した。

それに目を付けたビル・ゲイツは1975年、「アルテア」用のBASICソフトを開発し、おれをきっかけにマイクロソフトを創業した。

1974年、テッド・ネルソン(米、社会評論家)は「コンピュータ・リブ」と題する本を出版し、権威や大資本に独占されているコンピューターを個人に開放せよと訴えて、ハッカーの喝采を浴びた。1975年、シリコンバレーで「ホームブリューコンピュータクラブ」の第1回会合が開かれ、コンピュータを自家醸造しようと考えるハッカー仲間のネットワークが出来た。

1975年、このような流れでヒューレッド・パッカードの技術者スティーブ・ウォズニアックはマイクロプロセッサーを用いて「アップル1」を完成、スティーブ・ジョブズと共同でアップル社を創業した。その後継機種「アップル2」はヒットし、これが大型コンピューターの最大手IBMをパソコン開発に向かわせた。1981年、IBMは「IBM-PC」を発売して成功した。

基本コンセプトの確立

エンゲルバード、サザーランドらは事務機器メーカー・ゼロックス(米)のパラアルト研究所に集まっていた。その一人 アラン・ケイは1971年、グラフィック・ユーザー・インターフェースGUIを統合して、絵で入出力し、“持ち運び可能なA4版の子供でも買える個人用コンピュータ”「ダイナブック」構想を発表した。これがその後、パソコンが一貫して目指した基本コンセプトである。

パラアルト研究所では、この基本コンセプトに基づいて1972年、「アルト」を開発した。しかし、ゼロックスのトップは事業化を認めなかった。すでに大型コンピュータが広く職場に浸透した中で、個人が買うには高いパソコンが売れるとは思えなかったからと言われる。

第1世代開発ターゲットと最初の顧客

ゼロックス・パラアルト研究所のパソコン技術は技術者ともどもベンチャー企業アップル(米)が継承した。「アルト」と同じ「リサ」を企業向けに売り出したが、これは失敗に終わる。次いでマーケティン・センスに秀でたスティーブ・ジョブズの構想でシロウトでもすぐに扱える「マッキントッシュ」を開発、1984年、上梓した。この開発にはマイクロソフトが協力している。この「マッキントッシュ」がアラン・ケイの「ダイナブック」構想に準拠した今日のパソコンの第1号である。

パソコンの先行的機種「アルテア」「アップル1」「アップル2」がすでに個人のコンピュータ・マニュアを取り込んで市場を創りつつあったが。「マッキントッシュ」はIBMが開き始めていた知的作業に従事する人たちに、今まで想像も出来なかった革新技術GUIの真価をアピールして、ビジネスの領域に顧客を一挙に広げた。ブッシュの夢はそこにあったのである。

マーケティングと経営の問題

アップルは社内にIBMなどとの競争に勝ち抜くだけの経営に長けた人材がいないことに気づいた。1983年、ペプシコーラ社社長でマーケティングの専門家、ジョン・スカリーがティーブ・ジョブズに口説かれて社長に就任した。

「マッキントッシュ」の成功は操作性を画期的に高めるGUIの大きな可能性を広く印象付けるジョブズの優れたマーケティング戦略にあった。発売に当ってのTVコマーシャルで大型コンピュータの独裁から人々を解放する英雄のイメージを劇的に演出したと言われる。

シリコンバレーで成功するには、優れた技術者と優れたマーケティングの専門家のタッグマッチが必要だと言われるようになった最初の事例とされている。

製品の世代交代と普及・拡散

「ダイナブック」構想に近づけるための課題は、(1)ビジネスソフトの充実と高度化、(2)情報処理の高速化、(3)記憶容量の拡大、(4)ネットワーク化による外部の情報の共有化、(5)小型化、軽量化、である。これらの開発能力はIBMを含めてコンピューター・メーカー側にはない。インテル、マイクロソフトやインテーネット・プロバイダー、電子部品・機器メーカーなどが次世代製品を支える製品やサービスを次々と開発をしていった。とくに、光ディスク、フロッピーディスクなどの記憶媒体やマイクロプロセッサーの高度化がパソコンの用途を拡大した、IBMがパソコン事業に参入して以降、コンピュータ・メーカーは次々とパソコン事業に参入した。

1989年、日本のメーカ(東芝、エプソン、NEC)が競ってノートパソコンを発売した。これが第2世代製品として市場を広げた。とくに東芝は商品名を“ダイナブック”として、パソコンの基本コンセプトに迫るものとアピールした。表示はブラウン管から液晶に変わり、デザインも高度化した。

2010年、アップルはiPadを市場に出した。これはパソコンから派生した一つの提案。市場がどう受け入れるかはこれかである。

抵抗と障害、プラットフォーム機能

最大の障害はパソコンの将来性、GUIの意義を一般の人たちにはじめはまったく理解されなかったこと。しかし、シリコン・バレー全体がパソコンを応援し、起業家に好意的な環境、イノベーション・プラットフォームだった。

技術のスピル・オーバーと企業間競争

パソコンに関しては知財権の問題はほとんど起こっていない。要素技術の研究開発は組織を超えてオープンに行われていたからと考えられる。パソコンのキー要素はマイクロソフト(アプリケーション・ソフト)とインテル(MPU)の寡占状態になってしまったが、IBMがパソコン部品の規格を公開して以来、パソコンそのもののメーカーは世界に拡散し、激しい市場競争が展開されるようになった。〔松井典明『メディアの考古学』、枝川公一『シリコン・ヴァレー物語』〕

2010年代に入って、パソコンの成長率は鈍化し、パソコンから撤退する企業が続出した。イノベーションは成熟し飽和に達しつつあるのか。アラン・ケイの「ダイナミック」構想を卒業して、パソコンはスマートフォンと融合しながら、どのような方向に発展するのか。

 

インターネット【市場創造、ハイテク型】…危機意識から生まれた

知識社会を支えるインターネットは社会的な問題意識から発して、高度な論理思考によって形作られていった。

発端、発想のきっかけ

RAND研究所は61年にアメリカ空軍の依頼を受けて、核戦争にも耐えられる通信システムの研究を開始、1964年に「分散型通信」に関する報告書を提出た。「分散型通信」の手段としてポール・バラン(RAND研究所スタッフ)はパケット通信という概念に行きついた。パケット通信には、必然的にルーター(デジタル情報の転送装置、実質的には電信士の仕事をプログラム化したソフトを載せたワークステーション、転送装置が互いに連携を取り合って転送経路を自動的に更新することができる動的経路制御機能を備えているも)が不可欠になる。

ビジョン、基本コンペプト

情報通信網が部分的に破壊されても相互に補完し合って、全体として通信機能を損なうことのない通信ネットワークを構築する技術の開発。情報はネットワーク化されたコンピュータのいずれかを通って、最終的に相手方に到達することができること。

要素技術の研究開発

ルータの基本概念は遠距離間の異種のコンピュータの接続に成功した経験のあるラリー・ロバート(MITリンカーン研究所)が考え出した。これに基づいて、国防総省高等研究計画局(DARPA)は開発中のARPANET用の交換機IMPの開発をBBN社に委託。インターネットのコンセプトは電話システムがその都度、通信を予約するのに対して、インターネットの全端末は電気的には常時接続されている状態に置いておき、実際の通信は必要に応じて行われることを前提にしている。ひとたび、通信が始まると全末端に情報が流れる。このためインターネットで通常の交換方式を採るとネットワークがオーバーフローする危険性がある。BBNは他のネットワークに関係する情報は他のネットワークにだけ引き渡すことを考えた。他のネットワークに引き渡された情報は動的経路制御機能によって、別のルーターに送られるので、転送が途絶えることはない。

ATTベル研が1969年にネットワーク化に適したオペレーション・システムUNIXを開発、これがインターネットのアプリケーション・ソフトのベースに。

1969年、DARPAの資金とロバーツの尽力で4つの大学(UCLA、スタンフォード大、UCSB、ユタ)のコンピュータがBNN社の開発した4台のIMPを介して接続に成功した。

実用化、最初のユーザー

4つの大学のコンピュータを接続したARPANETの運用がインターネットの始まり。これに刺激されて類似のコンピュータ・ネットワークが誕生。1976年には接続機関数100を越えた。1984年に構築された5カ所のスーパー・コンピュ-タを中核とする大規模なNSFNETがARPANETと相互接続されるに及んで、今日のインターネットの基盤が形成された。

障害、抵抗

日本はインターネットの要素技術の開発にまったく貢献するところがなく、利用面でも世界に大きく後れを取った。その理由は基本的には、日本の通信技術の総本山NTTの判断ミスと通産省等の国産技術へのこだわりがあった。日本は従来の交換システムを用いる信頼性の高いOSIをネットワーク型通信システムの本命と評価し、インターネットを無視した。NTTの関係者は、日本の通信技術は極めて高度に体系化され、強固な技術思想を形成していたので、これとは異質の考えを拒絶する空気が学会内にも強かったと述べている。〔NTT武蔵野研究開発センター〕

 

日本語ワープロ【市場創造・ハイテク型】

世界最初のワードプロセッサー、しかもコンピューター処理がもっとも難しいと考えられていた日本語ワープロは東芝の技術者・森健一の問題意識から生まれた。

きっかけ

森健一は“人のやらないことをやりたい”という思いの強い技術者だった。機械翻訳に関心を持っていた。彼はあるとき、日本の新聞記者が欧米に比べて記事を書くスピードが遅いということを知り、タイプライターのような日本語入力装置の潜在的なニーズを感じて、これを開発したいと思い立ち、日本語処理の研究を始めた。

ビジョン、商品の基本コンセプト

森が最初に描いたワープロの基本コンセプトは、(1)手書きよりも速いスピードで入力出来ること、(2)個人が持てるポータブルであること、(3)通信ができることであった。

要素技術の開発

速い入力とポータブル化のためには、かな漢字変換機能が不可欠。コンピューターで言語処理するために、まず言語学の知識が必要と考え、部下を大学文学部に留学させた。

1973年、非公式に研究を開始。最大の課題は、コンピュータ処理に適した日本語文法とコンピュータ用の辞書の開発。まったく未開拓の分野だったが、76年には、大型コンピュータを使ったシミュレーションに成功し、本格的な開発プロジェクトに認められた。

入力方式には、かな漢字変換法方式以外に邦文タイプライターで用いられていたタブレット方式も考えられたが、ポータブル化を考えて、かな漢字転換方式に絞った。事業部長の前で、一般の女子事務員が手書きよりも速いスピードで入力できることを実演で示した。これで社内は弾みがついた。個人用を目指して、コストが大幅に下がる可能性が高い半導体を多用した。ハードの開発は社内に蓄積されている技術を総動員して進み、半年後の78年末に販売を開始した。

第1世代製品、最初の顧客

第1世代製品が実現したことは、手書きよりも速い入力だけ。デスク大の大きさで価格は630万円。邦文タイプライターの代わりに大きなオフィスに導入された。最初は特許関係の事務所で多く使われた。

製品の世代交代

1984年、ポータブルが発売され、第二の目標を達成。さらにインターネットを通じて通信可能になった。

普及、企業間競争

東芝の発売から1年後には、エレクトロニクス各社が追随、価格を巡る競争が展開されるようになった。入力方式は当初は多様だったが、東芝が技術を公開したため、かな漢字変換方式にやがて収斂した。〔森健一氏〕
ノートパソコンの普及によって、ワープロの時代は終わったが、かな漢字方式はパソコンに引き継がれ、世界でもっとも複雑な日本語のデジタル化に大いに貢献した。

 

iモード【市場創造・ビジネスモデル型】

「iモード」はNTTドコモが世界に先駆けて事業化した携帯電話インターネット接続サービスである。

変化の潮流、きっかけ

1990年代半ば、NTTドコモ社長の大星公二は携帯電話市場の飽和に強い危機感を抱いて、コンサルタント会社マッキンゼーに次世代の電話サービス事業の提案を求めた。一方で、高校生の間でポケットベル、PHS0やゲーム機が新しい感覚で使われ始めていた。

ビジョン

コンサルタント会社の提案とポケベルの使われ方を参考に、子供でも使える携帯電話による文字情報の受発信、モバイル・コンピューティングというビジョンが生まれた。

事業コンセプトの模索

1997年、榎啓一をリーダーとする開発プロジェクトが発足。事業コンセプトを纏めることになったが、社内には、コンテンツやインターネット接続、ネットビジネスを理解できる人材がいない。榎の最初の仕事は、中核となる開発スタップを社外から採用することだった。松永真理、夏野剛らはこのときに採用された。

事業コンセプト、つまり、誰に対してどのようなサービスをどのような方法で提供するのかを絞り込んで、開発すべき目標仕様を決めなければならない。社外の専門家も交えて頻繁にフリーディスカッションを開いた。さらに、社外の一般の人にも議論に加わってもらうために、「クラブ真理」という一般市民も自由に出入りできるサロンまで開いた。こうして、“コンシェルジュ”、“情報のコンビニ”というキー・コンセプトが生まれた。メールの受発信、インターネットおよび企業の影響する多彩なコンテンツの閲覧ができる携帯電話。

開発

事業コンセプトに合わせて技術的な使用が決定し、これに対応して開発がすすめられた。無線では初めてのパケット通信方式に挑戦し、プロトコルは携帯電話の世界標準になりつつあったWAP方式をあえて避けて、インターネットのHTMLをコンパクト化して採用、これによってインターネットとの親和性を確保した。コンテンツ利用者から少額の課金を集めて提供者に利用料を支払うというWin-Win方式によってコンテンツを多数集めた。しかし、社内での評価は低く、事業の成功は危ぶまれていた。

マーケティングと最初の顧客

マーケティングは最初から意識し、たとえばネーミングでは、iを付けて、情報化時代のさきがけをイメージさせようとした。98年11月、サービス開始の記者発表。社内と同様にマスコミにも、まったく評価されず、集まった記者は7人だけ。再度、記者説明会を開いた。このときは広末涼子を起用した2部構成で派手な演出を行って、マスコミにインパクトを与えた。1999年、サービスを開始した。

開発リーダー(榎氏)だけは自信があった。彼はポケベルやコンピュータゲームが10歳代の男子にどのように使われているかをNTTの地方の支店長のときに知っていたからである。10代の男子を最初のターゲットに、同世代の女子に広げるというシナリオを想定。実際のそのとおりの展開となった。

障害

最大の障害は通信分野の専門家たちの理解が得られなかったこと。専門家ほど利用者がいるとは思わなかった。

スピルオーバーと普及、企業間競争

iモードのサービス開始後、KDDI、ソフトバンク、ヤフー等が直ちに追従した。2002年以降、海外各国に技術ライセンスを行った、しかし、一部を除いて成功していない。その理由は、日本と外国とでは携帯電話の使い方が違うためと考えられている。〔榎啓一氏、松永真理『iモード事件』〕
iモードはモバイル・コンピューティングの第1世代であった。これが発展して、スマートフォンへと発展した。

 

宅急便【市場創造・ビジネスモデル型】…危機意識から徹底的な論理思考で

宅急便はヤマト運輸2代目社長 小倉昌男の徹底した論理思考の中から生まれた新しいビジネス・モデルであった。

発想の原点、きっかけ

ヤマト運輸は鉄道輸送時代の運輸業界のビジネス・モデル近距離輸送にこだわり、長距離輸送に出遅れ、競争に負けて経営は悪化し続けた。1971年に社長に就任した小倉昌男は、活路を従来のトラック業界が手を出していなかった個人の小口荷物の運送(国営の郵便事業が実施)に見出そうと考えた。かつて行っていた百貨店の配送業務の経験が活きる可能性がある。

ビジョン

多品種少量輸送システムの開発によって、日常生活の中に埋もれているニーズを掘り起こして、新しいビジネスにすること。

ビジネス・モデルの開発

72年、社長小倉の提案したビジョンは社内の猛反対に会った。トラック輸送の常識にまったく反していたから。小倉は彼のビジョンが収益性のあるビジネスになるための条件を経営学の論理を援用し、他のサービス事業を参考にしながら徹底的に考察した。

まず、個人宅配市場の潜在需要はかなり大きいことを確認、全国規模での集配達ネットワーク(ベース/センター/デポの3層構造、ベース間は大型トラックでお大量輸送)の設計と拠点の適正配置、集配車の適切な配置などを検討し、集配車1台の平均集配個数がある水準を超えれば、収益が出ることを論理的に確かめた。75年、その結果を「宅急便開発要綱」として取締役会に提案、ようやく承認を得た。

事業コンセプト

不特定多数の個人の小荷物を“全国どこでも翌日に配達”する(宅急便開発要綱(75年))。

要素とサービスシステムの開発

直ちにプロジェクト・チームを結成、2か月で宅急便商品化計画をまとめた。サービスのネーミング、シンボル・マークのデザイン、取り扱う貨物の重量・大きさ、サービス・レベルなどを決定。地帯別均一料金制を採用、ユニークなCM、セールス・ドライバー(SD)制度の導入とSDマニュアルの策定、SDへの事故処理権限の付与などを考案。事業スタート後順次、宅急便専用のウオークスルー車、自動仕分けシステム、運送情報管理システムNEKO等を開発。

最初の顧客、事業の拡大

1976年2月、東京23区と都下、関東6県の市部で営業開始。初年度の取扱個数171万個。79年末までに全国で面積の27%、人口の75%に。同年、2226万個。スタート5年後に黒字化達成。89年に人口でほぼ100%。配達個数4億1千万個。

障害

運送業界の常識と社内の反対…社長の熱意と客観的な論理で説得。道路運送法による国の許認可と役人の無理解で全国展開は5年遅れた。小倉社長にとって“運輸省はまさに親に仇”。

次世代製品、事業の発展

顧客のニーズに合わせながら、スキー、ゴルフ、さらにクール宅急便を開発。通信販売の普及に合わせて、コレクト・サービス、ブック・サービスを開発。いずれも宅急便のサービスシステムに乗る。

波及、起業家競争

黒字化のニュースに、80年以降、宅配便事業を始める会社が続出、35社に。各社が競ってペット動物をキャラクターに使ったため、動物戦争と言われた。〔小倉昌夫『小倉昌夫経営学』〕

宅配便の普及は私たちお日常生活を大きく変えたイノベーションであった。ヤマト運輸は、これによって、見事に甦った。『小倉昌男経営学』は経営戦略の優れたテキストと経営学者は高く評価する。“経営は論理の積み重ね”という小倉の言葉はイノベーションの成功が単なる偶然や幸運によるものではないことを私たちに示している。

 

カラオケ【市場創造・ビジネスモデル型】…ちょっとした気づきから大ビジネスが

日本で生まれ世界に広がった草の根的イノベーションの事例。

きっかけ

井上大佑(バンドマン)は客のリクエストで歌の伴奏をする際、下手なお客にもテンポや音程をうまく合わせる特技が。
なじみの中小企業の社長が地方に出かける際に、井上の演奏で歌いたいと同行を求められたが、別の仕事があった。そこでテープレコーダーに歌の伴奏を録音し手渡した。社長は本物の伴奏で歌ったように声が出て、大喜びしたという。そこでひらめいた、「これは商売になる」。すでに普及していたジュークボックスを参考に。

基本コンセプト

再生機に、用意した調べ、テンポから選択し再生できる曲を吹き込んだテープと歌詞カードで構成。

事業化

1971年、「8ジューク」の名で発売

普及・発展

特許を取得してなかったので、フォロワーが続出、カラオケはやがて世界の夜を制覇。米国の有力週刊誌に、井上は20世紀でもっとも影響力のあったアジアの20人の一人に選ばれた。イグ・ノーベル章も受賞。〔大下英治『カラオケを発明した男』〕

 

市場高度化対応型のイノベーション

ハイブリッド車【市場高度化、提案】…未来予測から生まれた戦略

トヨタ自動車は未来予測に基づいて戦略的な経営を展開していると言われている。ハイブリッド車の開発と商品化はその成果であった。

変化の潮流、きっかけ

80年代、乗用車は豪華で大型化する一方で、事故やCO2排出など負の側面も大きくなってきた。社長豐田英二は“自動車を変えなければ21世紀は生き残れない”と強いに危機感を抱いていた。80年代末、トヨタ社内で21世紀初めの未来社会の予測が行われ、20世紀の乗用車のあるべき姿が議論されていた。

ビジョン、製品コンセプト

1993年、21世紀の自動車のあり方を検討するプロジェクト「G21」が発足。将来の自動車の問題は資源と環境に集約されると分析した。乗用車の基本的方向は1.外観は小さく、室内は広く、2.燃費は1.5倍以上、3.有害排出ガスの極小化。トップの方針はこの目標を実現したコンセプト・カーを2000年までに市場に出すこと。

要素技術の開発

次世代技術としてハイブリットも研究が進んでいたが、その時点では不完全。開発チームは当初、従来型のガソリン・エンジン車の技術開発で目標を達成しようとした。ところが、95年の東京モーターショーに出展する車は、トップダウンでハイブリッド方式と決定。開発チームは大至急で要素技術を選択し、システムをまとめて、出展に間に合わせた。”プリウス“という名前もこの時に決められた。

会社の総力を挙げてハイブリット方式の開発に取り組んだ。1997年に開かれたトヨタ・ハイブリッド・システムTHSの説明会ではトップの強い指示で、年内発売と燃費の目標値、価格まで公表した。

最初の顧客

97年末、第1世代“プリウス”は予定どおり発売された。同型の乗用車よりも割高だったが、国内では予想以上に売れた。消費者の環境への問題意識が思った以上に強かったのだった。

第2世代

第1世代の開発は、事業の見通しを立ててのことでなく、トヨタが自動車の将来をどのように考えているのかを広く世にアピールすることを第一の目的としたものだったと考えられる。

第1世代製品に対するマーケットの反応を分析して、本格的な量産車の開発を急ぐことになった。第2世代の開発目標は、燃費は従来の2倍、排出ガスは2000年基準の25%以下、走行性能に優れていること、コストは十分に採算が取れる水準であること。2003年、発売開始、日米欧市場で本格的なマーケティングを始めた。

普及、企業間競争

ホンダ、日産などの日本メーカーは直ちにトヨタに追随。ハイブリッド車を市場に出した。欧米のメーカーは技術的な準備が遅れ、参入はさらに遅れた。ハイブリッド車は単に燃費の良さだけではなく、新しい感覚の乗用車として市場に受け入れられた。〔御堀直嗣『未来カー・新型プリウス』、トヨタ自動車関係者〕

自動車業界では、ガソリン自動車の次は電気自動車と考え、ガソリンと電気を使うハイブリッドはその中間的な中継ぎに過ぎないと見なされていた。世界の主要な自動車メーカーは電気自動車の研究開発を本命としていた。トヨタは綿密な分析で、電気自動車が本格的に普及するまでには相当の時間がかかると読んだ。ハイブリッドがある期間、市場の主流になり得ると判断したに違いない。

ハイブリッド車はガソリン車とは異なるドミナント・デザイン。その意味では、100年ぶりの製品の革命である。

 

液晶ディスプレイ【新市場創造型・ハイテク型】…連鎖で発展したネットワーク

液晶ディスプレイは今や、ビジネスにおいても日常生活においても欠かすことの出来ないコミュニケーションのツールで、その市場規模は世界で20兆円にもなる。

基本となるモジュールは、液晶材料、フィルター類、制御基板等を精緻に組み合わせた液晶パネル、駆動回路、光源等で構成される。駆動方式をはじめ個々の要素にはさまざまな技術が開発されており、全体がハイテク技術の巨大な集積である。技術開発はエレクトロニクス、光学、有機合成、ガラスと高分子材料の改質・表面加工、微細加工技術など、広い範囲にわたる。

製品開発では、用途特性に応じて技術を選択し最適設計が行われる。多様なハイテク企業が関与しており、産業組織も複雑である。このような産業がどのようにして生まれ発展してきたのか。

予兆的な事象、発想のきっかけ

液晶物質の発見は19世紀末ころ。1950年頃からヨーロッパで液晶に関する理論的な研究が活発化した。1965年頃からアメリカの主力エレクトロニクス企業(GE、ATT、IBM、ゼロックス等)が研究を開始。RCA社(米)の研究者ハルマイヤーはレーザーの変調方式を探索中に動的散乱効果を発見。1968年、RCA社は動的散乱モード型液晶テレビを試作、発表した。これを応用すれば壁掛けテレビが出来ると考えられた。

ビジョン

液晶ディスプレイの将来ビジョン(夢)は壁掛けテレビであった。テレビの究極の目標は映画に代わること。これはブラウン管方式では不可能であった。

要素技術の研究開発、大学等の貢献

RCA社の試作装置は100℃に加熱する必要があり、実用からは程遠いものだった。しかし、すでに研究に着手していた各社を刺激し、米では半導体メーカー、日欧ではテレビ関連や電卓メーカー、さらに大学等も競って研究を開始した。日本では理研が企業に対して技術に関する啓蒙普及活動を展開し、企業の研究のオーガナイザー役を務め、1973年にTN型の開発に成功した。1972年、ハル大学(英)、ヘキスト社(独)が常温で作動する液晶物質を開発。1975年頃から研究の対象がTN型に移行。日立等は表示情報量を増大させる技術、量産化技術を開発し高度な応用が可能になった。小さな液晶表示デバイスを製品化できる要素技術は整った。

しかし、本命の壁掛けテレビはあまりに遠い目標、アメリカの大手エレクトロにクス・メーカーは次々と開発から撤退した。残ったのは日本メーカーだけだった。

基本コンセプト

外部からの信号を受けて文字および画像をカラーで鮮明に表示する民生用の平らなパネル。最終目標は大画面・薄型の壁掛けテレビ用。

第1世代開発ターゲットと最初の顧客

デジタル・ウオッチが最初のターゲット。小さくてモノクロ。顧客はこれら製品の組み立てメーカー。1973年、シャープはTN型電卓表示装置を開発。1975年ころから、多数の液晶デバイス・メーカーがデジタル・ウオッチを巡って激しい競争を展開。その結果、アメリカのメーカーはことごとく開発競争から撤退し、日本のメーカーだけが研究開発と市場開発を続けることになった。

マーケテイング、技術の高度化

日本ではデジタル・ウオッチ以外に電卓、カードゲーム、パチンコの表示窓など独特の用途分野が存在したことが幸いした。日本企業はこうした小さなマーケットに積極的に対応することで生産技術を向上させた。79年、日立は電卓用の多段取り一貫生産ラインを確立。

テレビ用途に接近するには、欠点のない大画面パネルの製造技術、カラー化、精細度、安定性などの向上、量産技術と低コスト化など多岐に亘る技術開発が必要。

1976年、グレイ教授(英ハル大学)が安定な液晶材料を開発。1982年、ブラウン・ボべリ社(スイス)がSTN型を発明。薄膜トランジスターTFTの開発。1990年、日本でカラーフィルターの開発。90年頃には、日本でドットマトリックス表示、TFTによるアクティブ・マトリックス駆動などの技術が確立。

製品の世代交代と普及・拡散

技術の進歩に対応して、ワープロからパソコンへと用途を拡大した。1983年、エプソンがカラーテレビを発表、1988年、14型を発売。90年代半ばには、動画を扱うデジタルビデオカメラの表示に適用。2000年代には携帯端末に応用は広まった。

障害と抵抗

最大の障害は本命のテレビに応用するには、乗り越えるべき課題が極めて多かったこと。この困難さのために、世界の多様なハイテク企業が研究開発に参加した結果、今日の技術体系が出来上がった。

技術のスピルオーバーと企業間競争

液晶ディプレイ技術の開発に日本の企業は重要な役割を果たした。結果として重要な基本特許は日本企業が取得していた。しかし、90年代に入ると韓国企業が参入し、次いで台湾企業、2000年代には中国企業が大型テレビを世界市場で販売し、初期の頃には、世界のシェアの8割を占めていた日本企業は急速にシェアを落とした。

このような高度な要素技術体系が新規参入企業にスピルオーバーし、短期間のうちに強力な特許を保有する発明企業を凌駕するライバルになった事例は少ない。この理由は十分には解明されていない。〔城坂俊吉『エレクトロニクスを中心として科学技術史』、シャープ関係者〕
液晶ディスプレイは平面表示デバイスの一つ、他にプラズマ方式、有機ELなどがあり、競合技術との競争は続いている。夢は映画を家庭に持ち込むことだったが、その目標はまだ達してはいない。未だにシネマシアターを備える家庭は滅多にない。

 

クォーツ式腕時計【市場高度化・提案型】…小さな企業が独力で起こした革命

小さな会社が抱いた野望(腕時計の精度を飛躍的に高める)は時計の技術体系を一変し、世界の時計業界の構造が大きく変える共に、時計が生活の中に深く浸透しした。これはクォーツ革命と呼ばれた。

この革命の主役はセイコーグループの現セイコーエプソン(当時の諏訪精工舎)。決して大企業ではない。しかも、学界や周辺関連業界の協力はほとんど得られない状況だった。世界の誰もが可能とは考えなかった開発を1企業が独力で成し遂げた珍しい事例である。

予兆的な事象、発想のきっかけ

機械式時計は日差20~30秒に達し、これ以上の精度の向上には、共振特性がよりシャープで長期に安定な振動子を応用する新技術の開発が必要。

1889年、ピエール・キューリは圧電現象を発見。この原理を利用してマリオン(米)は研究室レベルで水晶振動子を用いた時計を試作して、時計への応用の可能性を示した。
1950年代には、チュリッヒ工科大学が実用的な試作品を開発。スイスの時計メーカーも開発を始めていた。水晶振動子の研究は日本の大学は高い水準にあった。

第二精工舎は放送局用大型クォーツ時計を開発、納入した実績がある。精工舎グループは将来技術としてクォーツに重点を置くことを決め、東京オリンピック用の公式時計の開発を進め、1964年、持ち運び可能なクォーツ式クロノメータを完成させた。その過程で、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)は将来に備えて、精密機械と電子工学の両方をマスターした技術者を養成した。これが日本独特の技術メカトロニクスを発展させた。

1959年に、トランジスターを用いた電池駆動式振り子時計(フランス製)が南極で実際に使われ、エプソンはその精度の高さに衝撃を受けた。腕時計では、スイス人が発明した音叉式を時計メーカー・ブロバ(米)が開発、1962年、発売を開始。誤差は2秒/1日で、時計業界に衝撃を与えた。音叉式腕時計を見て、エプソンは機械式を追及しても競争には勝てないと“とてつもない危機感”(中村恒也(当時の技術部長、後のエプソン社長))を感じ、1964年、クォーツ式の腕時計を開発することを決めた。

ビジョン、事業コンセプト

エプソンが描いた夢=機械式では実現し得ない精度の高い腕時計を市場に出す。開発リーダー中村恒也の信念は“クォーツ腕時計は必ずすべての面で機械式腕時計を追い越す”だった。

要素技術の研究開発

腕時計の限られたスペースの中に水晶振動子、制御回路、電池、運針用モータを組み込むことは当時の技術水準ではまったく不可能と考えられた。エプソン以外に取り組んだ会社はスイスにもどこにもなかった。しかも、要素技術はすべて独力で開発する必要があった。

解決すべき課題は、(1)水晶振動子の小型化と安定化、(2)モータの小型化、(3)極小電流で駆動するシステムの組み立て。その中で、モータを構成する要素をバラバラに分散して隙間に詰めて、働かせるという発想。オープン式ステップモータの発明が決定的に重要だった。このアイデアは開発チームの中で自然発生的に生まれた(相沢益夫)。これがなければ、クォーツ腕時計はできなかったと言われる。

第1世代の開発目標、最初の顧客

1969年、エプソンは世界最初のクォーツ式腕時計を発表・発売した。小ロットで手作り、コストは当然、高かったので、あえて18金ケースの高級高価格品として売り出した。顧客は富裕層の好事家を狙って、売り切った。誤差は1ヶ月に3秒程度、機械式では考えられない精度の高さに世界は驚いたが、到底、普及品にはなり得ないと専門家は評価した。

経営とマーケティング

セイコーグループのトップ(服部謙太郎)は一貫して開発を支援した。機械式腕時計の新製品で業績が好調だったという事情も幸いした。技術開発では中村恒也が強力なリーダーシップを発揮した。世界の時計の流通業界に対してクォーツ腕時計の取り扱いの講座を開いた。“Some day,all watches will be made this way“が海外での宣伝のキャッチ・コピー、ビジョンを強く訴えるものだった。

製品の世代交代

その後の開発の目標はすべての点で機械式腕時計を凌駕すること。主要な課題は、水晶振動子の極小化とMOS-IC回路の開発。組み立て工程の自動化など。部品メーカー、半導体メーカーの協力はほとんど得られていない。独力で開発を進め、これに対応して毎年、新製品を上梓した。1980年代後半には、あらゆる点で機械式を凌駕した。

障害と抵抗

最大の障害は自社内の製造部門、生産技術が固まっていない厄介なものを作ることに強い反発があった。中村は開発と生産の調整に苦労した。加えて、グループの販売系列にも抵抗があった。通常の営業活動のジャマになるからである。半導体メーカーの理解も得られなかった。

普及と拡散⇒クォーツ革命

世界の腕時計の9割はクォーツ式に置き換わった。日本が腕時計の最大の生産国になる一方で、開発に出遅れたスイスでは、腕時計産業が1/3にまで縮小し、アメリカとロシアの時計メーカーは消滅した。クォーツ革命と言われるように、影響は広範囲に及んだ。生産工程から精密加工の機械技能工も、町の時計店の修理工も不要に。販売店保証体制も大きく変わった。

技術のスピルオーバー、市場競争

クォーツ腕時計の基本特許は1950年代にハミルトン社(米)がデジタル表示で取得。エプソンは要素技術について数多くの特許を取得し、ハミルトンとクロス・ライセンスを行った。エプソンは世界からのライセンスの要請にすべて応える戦略を採った。技術の独占は製品の普及の妨げになると考えたからである。

その結果、技術は世界に拡散した。ライセンスを受けたシチズン時計はクォーツ腕時計の心臓部分ムーブメントを量産し外販する戦略を採った。これによって、誰でも腕時計の組み立てができるようになった。香港は腕時計の一大生産地となった。低コストを利用してファッション・ウォッチというジャンルが生まれた。デジタル・ウォッチが生まれ、時計製品は多様化した。時計機能が機械製品に広く組み込まれて機械の自動化に役立ち、C-MOS技術を育て、日本のメカトロニクスの確立に貢献した。〔中村恒也氏、セイコーエプソン、セイコー・ミュージアム〕

クォーツ革命には続きがある。スイスの時計業界はマーケティングのイノベーションで巻き返しに成功するのである。これは後の章で述べる。

 

光ファイバー【市場高度化・提案型】…目標の明確化で研究が本格的に

光通信は古くからその分野の技術者の意識の中にあった。最初に事業化したのはアメリカの巨大企業コーニング・グラス、ATTの共同開発による。日本もガラス・メーカー、通信ケーブル・メーカー等が研究を始めていたが、電電公社(現NTT)が中核となり、国も支援する共同研究プロジェクト体制ができてから、日本は急速に技術力を高め、世界の光ファイバー産業をリードするようになった。

予兆的な事象、発想のきっかっけ

1870年頃、J.ティンダルは内部全反射を利用する光の導波路を開発した。これがガラス光ファイバーの最初の試み。20世紀の前半、光像の伝送方法として研究開発が行われ、胃カメラなどへの応用が進められていた。

ビジョン、事業コンセプト

光通信のアイデアは電波理論の延長線で古くから考えられてきたと見られ(光通信方式のアイディア特許は日本で1936年に出願)、必ずしも新しい科学的知見が発端となったものとは言えない。光通信を実現するには、(1)光をどのような方法で導くか(光の拡散・減衰をどのようにして防ぐか)、(2)光源をなににするのか、という二つの技術的課題が存在し、この解決が必要と見なされていた。

要素技術の研究開発

光伝送路については、ヴァン・ヒール(オランダ、1953年)がコアより低屈折率の被覆をもつガラスファイバー束によって光像を伝送する実験を行った。光源については、ルビー・レーザー、半導体レーザーが開発され、解決の目途が付きつつあった。光通信受信素子、半導体レーザー等の要素技術の研究と西沢潤一(元東北大学学長)の収束性光ファイバー方式の提唱(1962年)が欧米の研究者に影響を与えとされ、光の伝送方式の開発を促し、ビーム状の光を空中伝搬する方式、金属導光管ガスレンズ方式(ベル研、64年)などが提案された。こうした2つの課題に技術的な見通しが立ったころ、カオら(英国スタンダード・テレコミュニケーション研究所、STL)は1966年、20db/Km程度の低損失伝送路があれば光通信が可能であることを理論的に解明し、光ファイバによる公衆通信の開発の方向性を示すビジョンを提唱。アメリカおよび日本の企業は刺激を受けて光ファイバの研究開発が本格的に始まった。

第1世代の開発・事業化、最初の顧客

光通信の実現性を最初に確認したのはアメリカのベル研(AT&T)とコーニング・グラス社の共同研究によってである。1970年にベル研が半導体レーザー室温連続発信に成功し、コーニング・グラス社はCVD法20db光ファイバーを開発し、基本特許を取得した。これによって、コーニング・グラス社は特許で世界的に有利な地位を占めることができた。ATTは共同研究を行ったが、需要サイドとして積極的に支援した様子は窺えない。

製品の世代交代

日本でも、66年に研究開発に着手した日本板硝子・NECグループが68年には実用可能な収束性光伝送媒体を開発し、研究開発をリードした。これに対して、異業種企業の参入に危機意識をもった通信線メーカー各社は67年以降、一斉に研究を開始した。これに大口顧客である電電公社が加わり、やがて電電公社を中心にそのファミリー企業3社(住友電工、古河電工、藤倉電線)が自主的に結集した共同研究プロジェクトが発足(1975~83年)した。このプロジェクトは大きな成果を挙げ、技術的に先行していたコーニング・グラス社を追い越すことになった。通信線メーカーの技術蓄積が活かされたこと、ガラス破砕性を解決したコーティング技術はその例である。また、電子デバイス・メーカー、材料メーカーなども数多く研究開発に協力した。これによって、もっとも重要な技術課題であった光ファイバーの低損失化においては、プロジェクト発足後の1976年にはコーニング社を抜き、以降、日本のメーカーがリードを保っている。

障害と抵抗

先駆的な研究者西沢潤一に対して、日本の学界、産業界は冷淡で、企業の協力が得られないこともあって、特許の取得にも失敗したと言われる。これは日本の産業界が先端的研究を正当に評価する能力のないことを示す典型的な例としてしばしば引き合いに出されるが、人間的な関係が災いしたという見方もある。

普及と拡散

日本では、電電公社中心に開発企業がすべて参加する形態の共同研究開発が効果的に行われた。ユーザー側との緊密な情報交換と技術協力、開発企業同士の激しい技術開発競争と技術の共有化などが研究開発の効率を高めた。各社の担当技術者は電電公社で行われる定期的なプロジェクト会議で他社の前で進捗状況を報告するので、強烈なプレッシャーと競争意識に駆られたと証言している。

アメリカでは、コーニング社単独で、コーニング社は特許による世界制覇を狙って技術を公開しなかったため、他のメーカーの技術を取り込むことも十分にはできなかったと見られる。一貫してコーニング社の独占状態が続いていて、関連周辺産業との協力関係はあまり知られていない。〔住友電工〕

 

高性能PAN系炭素繊維【市場高度化・提案型】…遊びの世界から航空宇宙へ

炭素繊維を用いた複合材料は、伝統的な構造材料である金属、とくに鉄の欠点である比重の重さを回避することができる新たな構造材料として、とくに軍需用途と宇宙開発で古くから期待されていた。研究ではアメリカが先行し、イギリスも力を入れたが、需要開拓に時間がかかり、その間に、欧米企業は研究開発から撤退していった。結局、事業化で成功したのは日本企業だけであった。

新しい潮流、きっかけ

19世紀末、炭素繊維は半導体材料として白熱電球の発明に重要な役割を果たしている。1940年頃、ガラス繊維の発明、ガラス繊維強化プラスティック(GFRP)が開発された。1950年代、強化繊維としてウイスカー、ボロン繊維の発明で、米空軍材料研究所が宇宙航空用の高強度軽量構造材の開発を始める。1967年、バーネビーチェニー(米企業)が木綿、レーヨン製の炭素繊維の製造販売を開始。

ビジョン

米ソ間の緊張の高まり⇒米政府の戦略方針:航空宇宙分野でのアメリカの技術的優位を確立する。炭素繊維複合材料が航空宇宙用の究極の構造材料として戦略的研究開発対象に位置づけた。

要素技術の研究開発

米政府は炭素繊維の研究を加速、1958年、化学会社UCC(米)がレーヨン由来の炭素繊維織物Thornelを米空軍材料研究所AFMLに納入、1965年には量産化。AFMLは航空宇宙用途向けの先端複合材料部を設置。

進藤昭男(大阪工業試験所)が、1959年、アクリル繊維(PAN)を原料とする炭素繊維の低温焼成法を発明、特許を取得、1961年、学会発表。これがきっかけとなって、欧米で炭素繊維の研究が活発化。大阪工試が東邦レーヨン等に特許ライセンス。1963年、大谷杉郎(群馬大)がピッチ系炭素繊維の特許出願、呉羽化学がライセンス取得、英国王立航空機研究所RAEが進藤特許に注目し、研究を開始。1965年、英国原子力エネルギー研究施設AEREが研究開発に参加、エポキシ樹脂複合材がジェットエンジンのファンブレードに適していると発表。技術をコート-ルズ(英)、ロールスロイス(英)にライセンス。ハーキュリーズ(米)がコートールズと技術提携。サッチャー首相が炭素繊維は20世紀最大の発明とイギリスの成果を日本でアピール。

東レは1961年に研究に着手、炭素化に適したPANを開発、短時間耐炎化技術を確立(69年)。1969年、本格的な研究開発を決定。UCCとの技術交流、1970年、進藤特許のライセンス取得。藤吉次英(当時の副社長、後の社長)は機械技術者の感覚で高分子材料の将来性に夢を感じ、トップとして支援した。

事業コンセプト

東レの採った基本方針:もっとも高性能のPAN系炭素繊維コンポジット(複合材料)を顧客のニーズに応じて生産・販売する。航空宇宙分野以外の産業用途を開拓する。日本企業は産業用途に、欧米企業は航空宇宙用途に。

事業化と最初の顧客

1970年、呉羽化学がピッチ系を補強材として工業化。
1968年、コートールズ(英)がPAN系を航空機エンジン用に商品化。
1971年、東レがPAN系で市場開拓用のセミコマーシャル生産設備を建設、あらゆる分野で積極的に用途開発を展開。最初の顧客は高強度で軽量にメリットのある特殊な産業用部材。

用途の世代交代と市場の拡大

東レは釣り竿に着目、1972年、見本市に出展。釣具メーカーが新製品として市場開拓。1972年、太平洋マスターズでブラック・シャフトを使ったプロゴルファーが優勝、ブラック・シャフトがブームになり、日本を中心にスポーツ用具に用途が広がる。PAN系が主流となる。

1974年、オイルショック。NASAが航空機エネルギー効率化のための研究プログラムを発足。飛行評価を実施。航空機部品分野が徐々に定着。しかし、需要の拡大は遅々として進まず、その間に欧米の企業は次々と開発から撤退。気が付けば日本企業だけが残っていた。

1990年代に入り、ボーイング(米)等の民間航空機メーカーが炭素繊維複合材を1次構造材に使用する開発を開始。本命市場がようやく開け始めた。

抵抗と障害

最大の障害は構造材料としての長期の耐久性、信頼性を科学的に実証することであった。このためには長期の実用試験が必要。初期の頃、本命の航空宇宙分野での需要は、試験的な使用のためのごく小規模なものに止まった。第2の問題はコストと成型加工性。この問題を克服するにも、不断の技術開発が必要だった。これらが欧米の企業の多くが事業から撤退する原因となった。

技術のスピルオーバーと競争

最初の段階から技術開発と市場開拓を一貫して続けてきた東レを初めとする日本のメーカーが世界の生産の7割以上を占めている。この技術はノウハウの固まりで、技術のスピルオ-バーは起こり難い。〔東レ〕

東レの関係者は、“ブラック・シャフトはまさに神風”と言う。

 

インターフェロン製剤【市場高度化、ハイテク型】…世論に押されて開発を決断

インターフェロン製剤は生理活性物質が世界で初めて治療薬として承認された例である。

新しい知見、きっかけ

1954年、長野泰一ら(東京大学医学部)は、従来の免疫理論では説明できないウイルス同士の干渉現象を発見し、ウイルス増殖抑制作用を持つ未知の物質がある可能性を学会で発表。1957年、A・アイザックら(英)も同じ現象を見出して、未知の生理活性物質の存在を確認、これにインターフェロンと名付け、学会発表し、特許まで申請した。これがきっかけとで世界各地で研究が始まった。

インターフェロンは細胞が外的刺激を受けて産生する特殊なたんぱく質であることが解明され、ウイルス増殖抑制のメカニズムも明らかになった。

東レは新しく進出する事業分野として医薬・医療に関心を持っていた。1970年ころ、東レの企画担当が、ソ連でインタ-フェロンで風邪を治す臨床実験を報じる新聞記事に目を止めた。調べてみると、従来有効な薬がなかったウイルス疾患に対しての治療効果があるが、製薬企業のどこも医薬としての本格的に研究開発を行っていないことが分かった。東レは本業の製薬企業が目を付けていないなら取り組む価値があると考えた。医薬メーカーと研究開発競争を演じても勝てる見込みはないからである。

1975年、基礎研究を始めることを決め、アメリカで研究をしていた小林茂保を採用して、研究チームを作った。

東レが描いたビジョン

バイオテクノロジーを活用した医薬開発で医薬事業に参入する。インターフェロンを医薬に仕上げること。

要素技術の研究開発

インターフェロンの量を測定する法を確立し、臨床研究用のヒト細胞からインターフェロンを産生させる方法を開発。医師グループと提携して、医薬としての可能性を探求した。72年、厚生省・科学技術庁はインタ-4フェロン研究班を設けて、国レベルで研究の組織化が図られた。

1977年ころ、臨床研究を行っていた東京都臨床研究所はガンに効く可能性を発見した。マスコミは“どんなガンにも効く夢の新薬見”と報じ、世界中の話題になった。東レの株価は急騰した。東レには臨床研究用のインターフェロン・サンプル提供の依頼が殺到した。製薬企業で研究を始めるところが相次いで現れて、ブームとなった。

こうした状況を受けて、東レのトップは医薬事業に消極的だった社長も含めて、“インターフェロンの開発は社会的な責務”と、膨大な開発費を必要とするリスクの高い本格的な開発に着手することを決断した。

事業コンセプト、第1世代の開発ターゲット

インターフェロンを制ガン剤(薬事法承認)として世界最初に市場に出すこと。これを契機に東レは医薬の製造・販売を事業として行う。

要素技術の開発

開発課題は、(1)医学界を動員した臨床研究体制を作り、薬効の確かな適応症を絞り込むこと、(2)インターフェロンの量産のための工業的な細胞培養技術を確立すること、(3)薬効・薬理の解明と安全性の確保・確認など。とくに、(1)と(3)は未経験の分野。開発を成功させるためには、製薬企業とのタイアップが不可欠と判断して、1980年に第一製薬(現、第一三共)と共同研究開発契約を締結した。

製造承認申請に向けて国の支援を得ることと開発のリスクを軽減するために、厚生省の勧めもあって、83年、新技術開発事業団(現、科学技術振興機構)と開発委託契約を結んだ。国家プロジェクト的イメージを装うことでいくつかの障害は軽減された。

世界初めてのヒト細胞タンク培養法を開発し、インターフェロンの安定した大量生産技術を確立。82年、生産設備の建設。有効性が確認できた脳腫瘍と皮膚ガンに絞って、製造承認を申請。

事業化

85年、製造承認取得と同時に、東レは医薬事業部門を発足。製剤の製造は東レ、販売は東レと第一製薬が分担し、事業化。

障害

医薬・医療市場では、製造承認の取得が大前提。前例のない種類の医薬だったため、リスクが大きかった。これを巡って医学界との調整が大きな問題に。社内でも事業化を巡って意見の対立が。

次世代製品

その後、B型肝炎、C型肝炎に適応症を拡大。

波及、企業間競争

インタフェロン製剤は住友製薬等、国内外の製薬企業が開発、製品化されている。インタフェロンは細胞に由来する生理活性物質の医薬化のきっかけとなった。〔東レ〕

【目次】イノベーションとは何か

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