イノベーション政策

科学技術立国の元祖はフランシス・ベーコン

17世紀、近代科学の成立に貢献した哲学者フランシス・ベーコンは、『ニュー・アトランティス』という本を書いた。日本を目指して船出した一行は嵐に会って、未知の国、ベンセレムに漂着した。その国の中心には国民から尊敬を集める巨大な研究機関が存在し、その成果の活用が国民の豊かな生活を支えているという社会である。科学技術立国の思想はベーコンに始まる。

彼は近代科学の真実かつ正当な目的が“新しい発見と力によって人間生活を豊かにすることであって、知識を自慢することではない”と高らかに唱え、これがヨーロッパの近代科学の精神的バックボーンになった。真理の探究は決して知的好奇心だけではなかった。“知は(より良く生きる)力”なのである。近代科学の原点は人々お生活の豊かさの増進にあった。欧米の科学者は概ね、科学の実利的な面を意識している。

先端的な科学技術の成果が、産業を興し、国の経済を発展させることを最初に世に示したのがドイツ。化学を発展させ、化学肥料、合成染料、合成医薬という近代産業を生み出した。これに見習って、理化学研究所は設立された。

 

理研コンツェルン…研究成果をビジネスに

高度な科学技術の研究開発が大きな産業を作り出した典型的な事例が日本にある。理化学研究所の研究成果を活かして理研コンツェルンと言われる一大産業集団が出来上がった。

財団法人理化学研究所は高峰譲吉の提案で、民間の寄付、国庫補助、皇室下賜金を資金に、渋沢栄一らが中心となって1913年に設立。目的は“物理学および化学に関する独創的研究をなし、またはこれを奨励し、もって工業その他一般産業の発展に貢献することを期す”とある。

初代所長は菊池大麓、長岡半太郎、本多光太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、仁科芳雄ら第一線級の研究者が集った。後にノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎、福井謙一も在籍したことがある。文化勲章受章者も多数輩出した。本多、池田、鈴木は特許庁の日本の十大発明家に選ばれている。戦前では世界レベルの研究所であった。

第3代所長、大河内正敏は研究室制度を導入し、主任研究員(今日、研究所で広く使われているこの呼称は理研で初めて使われた)に大幅な権限を与え、自由闊達で相互に競い合い刺激しあう雰囲気を創り出し、大いに成果を挙げた。

大河内は一方で「科学主義工業論」を展開し、“全世界を向うに回しての産業戦の勝敗は、一に科学者の粋を産業に取り入れるか否かにある”という信念を実現するために、三井、三菱等から資本金を集め、1927年、理化学興産(株)を設立した理研興産はベンチャー企業のインキュベータとして機能し、研究成果の工業化は理研内の工学系研究室と工作部の技術者集団が全面的に支援した。その結果、多くの企業が興り、最盛期には直系、傍系を合わせて63社、120工場を擁する一大コンツエルンに発展した。リコー、協和発酵キリン、リケン、ワカモト、科研製薬などは現在も活躍している。

理研興産設立の目的には、不足する研究費を事業の利益で補うことにもあった。大河内は、研究者に対しては寛容であったが、事業経営者に対しては厳しいマネジメントで接し、ワンマン的暴君だったと言われている。

敗戦によって、GHQの命令で原爆の開発を行った理研と15大財閥に指定された理研興産は解体されたが、1953年、特殊法人科学研究所(後に理化学研究所)として復活、今日に至っている。理研は研究部門、事務部門、技術支援部門(日本では珍しい)が対等の立場で研究目的に向かって協力する日本では珍しい(欧米では当たり前)の組織風土があるが、これは戦前の理研からの伝統である。〔理研関係者、宮田親平『科学者たちの自由な楽園』〕

 

科学技術振興から産学連携へ

国の運営に科学技術が組み込まれることになったのはアメリカからである。元来、アメリカは欧米と違って、大学は私立あるいは州立で国の予算が大学の研究に使われることはなかった。これを変えたのは第2次大戦中に実施されたマンハッタン計画、科学者を戦争目的に動員するプログラムで、原子爆弾の開発が行われた。

この成功を見て当時の米大統領はマンハッタン計画のリーダー、ヴァネーヴァ・ブッシュに、平時の国家事業への科学者の動員について諮問した。これに応えた報告書が「Science:The Endless Frontier」。この中で、ブッシュは、国家が基礎研究を支援して、科学技術を振興することが国民の健康、福利厚生、雇用の確保などに大いに役立つことを強調した。この答申をきっかけに、1950年にNSFが設立され、公募された提案を科学者が審査して採択し、研究費を交付するアメリカ独特のプロジェクト・ファンディング・システムが確立された。

ところが、1970年代以降、日本やその他の新興国に追い上げられて、とくに製造業が勢いを失って、貿易赤字に悩まされるようになった。さらに、ソ連の崩壊、冷戦の終了によって、科学技術に対する国家の期待も大きく変化した。

アメリカ下院科学技術委員会の1998年報告書「Unlocking Our Future」は、科学技術の国家的役割は軍事的優位の確保、国家的威信の高揚からから経済の発展への貢献に軸足を移すべきことを強く訴えた。

上述の報告書の中で使われていたのが“死の谷”の比喩である。報告書では科学技術への投資と事業化への投資とでは評価基準が異なるので、研究開発と事業化の間にはギャップが生じる、これを“死の谷”と呼んだ。報告書では、 “死の谷”の橋渡しをする「中間レベルの研究」は民間が行うものだが、この橋渡しの援助は政府の役割だと言った。

企業の中での研究開発は本来、事業への貢献を前提にしている。したがって、研究開発費の経済効率は常に経営トップの意識の中にある。事業へ結び付く可能性が低いと見られた研究開発には手を付けないことになる。これが“死の谷”を作る。そこを政府が支援すべきだという主張である。

 

イノベーションへの期待は大きくなった

現在、国家社会にとってイノベーションはどのように見られているのか。以下はその代表的なものを並べてみた。

OECDは、“イノベーションは長期的経済成長の推進力であり、世界市場での競争力の主要な基盤であり、さらに多くの社会的課題に対する対応の一部でもある”とその意義を高く評価している。

アメリカも同じ。米国競争力協議会のレポートの結論は“米国および先進諸国の経済的繁栄は、これらが国内および国際市場と顧客のニーズを創造し、適合する最前線に常にあって、競争相手からは動き続けるターゲットであり続けられかどうかにかかっている。そのためには高い水準のイノベーション能力が必要である。国のイノベーション能力は経済成長ばかりでなく、生活水準の持続的な向上にも影響を与える”。

EUも“イノベーションは、EUの達成すべき目標のために、我々の経済に浸透し、社会に受け入れられなければならない。イノベーションはヨーロッパの企業の競争力にとって基本的なものであり、従って、経済に対する政策の主たる目的の一つと同様に、企業に対する政策の主要な要素である”と加盟国に訴えている。

J.Sundboは『The Theory of Innovation』の中で“イノベーションの促進は国の政策に不可欠である”と言い、イノベーションの意義を以下ように説明している。イノベーションは、(1)経済成長の原動力であり、(2)企業の繁栄の元であり、(3)国の産業の国際競争力の源泉であり、(4)社会的な問題の解決であり、そして、さらに(5)社会を変えていく推進力である。つまり、イノベーションは今日の社会の根本に関わる営みである。そして、個々の企業のイノベーション・プロセスはその企業の発展と成長に極めて重要であり、結果として社会的・経済的成長と国の競争力にとっても極めて重要である。イノベーションの促進は通商産業政策に不可欠のものになりつつあると述べている。

このように、イノベーションは景気の循環を起こすだけのものではない。今や、人類社会の抱えている問題のすべての解決のカギを握っているものと大きな期待がかけられているのである。

 

イノベーション政策の構造

以上のような認識が政策責任者に広く浸透し、今や世界的に国家運営の重点はイノベーションの振興に移っている。日本も遅ればせながら、小泉政権が手を付け、安倍政権がイノベーションを看板に掲げた経済再生戦略に取り組み始めた。

イノベーション自体は民間が主役。そして、イノベーションの起こり方はその地域の産業組織と科学技術のレベルだけでなく、イノベーションに好意的な社会システムの構造、すなわちナショナル・イノベーション・システム(NIS)に深く依存することが分かってきた。イノベーション振興に対する国、行政の役割は国レベルでの科学技術の振興とその地域に適したナショナル・イノベーション・システムの構築することである。

図表7-3-1イノベーション政策の構造
(作成:原 陽一郎)

EUが加盟国に対して勧告したイノベーション政策のガイドラインは次のとおりである。

(1)イノベーション政策のその国固有の環境への適合。
(2)国および地域、異なる部門間の協調のメカニズムの確立と整合的な政策の推進。
(3)ターゲットの設定、モニタリング、評価およびピアレビューの実施。
(4) 研究開発成果の利用と技術移転の促進。公的資金による研究成果の拡散のルールの適用。
(5)起業の創出と開発に有利な法的、会計的、財務的環境を作り出す国の支援。
(6)地域レベルでのインキュベーター等の支援サービスの強化、地域レベルでのイノベーション・プログラムの策定。
(7)高等教育において起業家精神とイノベーション・マネジメントに関する教育・訓練スキームの設定。
(8)会計上の優遇処置を通して、企業による研究投資と研究者の採用の促進。生涯学習プログラムの実行。
(9)イノベーションに関する幅広い社会のステークホルダーの前向きの議論の奨励。
(10)行政によるダイナミックな調達政策によるイノベーションの公的需要の喚起。

この中で、注目すべき点は、(10)行政によるダイナミックな調達政策によるイノベーションの公的需要の喚起、である。アメリカでは、行政による戦略的な調達が効果的に行われて、とくにベンチャー企業、中小企業のイノベーションを支援している。公的資金による開発成果を行政機関が積極的に買い上げる、調達金額の一定量は中小企業からの買い上げに充てるなど、イノベーションの最初の顧客になることが少なくない。たとえば、集積回路は事業化後3年間、販売先は政府だけであった。

【目次】イノベーションとは何か

電子書籍の出版に興味がある方へ

「JOURNAL & BOOKS」では、電子書籍の制作・出版をサポートしています。

詳細につきましては、下記のサービスメニューをご確認ください。