イノベーションのダイナミック・プロセス

イノベーションのダイナミック・プロセス・モデル

クラインのモデルは、1企業の新製品開発、新事業開発のプロセスの実際を良く示しているとMOTの専門家は見ている。しかし、2項で紹介したような社会全体に大きな影響を及ぼしたイノベーションの場合は、クラインのモデルでは説明しきれない。

私たち東レ経営研究所は2項に挙げた実際のイノベーションの事例を分析・考察して、イノベーションのきっかけからイノベーションが発展し普及するまでのダイナミックなプロセスの一般的なパターンを描いた。それが図表6-3-1である。

図表6-3-1 イノベーションのダイナミック・プロセス(作成:東レ経営研究所)

イノベーションには、その主役となる個人あるいは企業に何らかの動機がある。そして、目指すべき具体的なイメージ(ビジョン)を描いて開発を始める。

ビジョンからその実現の技術的可能性や必要な要素技術の研究開発が展開される。ビジョンが世界的に新しい研究開発の潮流を作りだす例は多い。

そして、要素技術の開発が進むと、挑戦的な企業(ベンチャー企業あるいは既存企業、ビジョンを描いた企業、人とは限らない)が市場の動向を踏まえて事業としての基本コンセプトを作り、最初の開発ターゲットを設定する。この時にコンセプトに最適の要素技術が選択される。

開発ターゲットに向けて開発が行われ、ビジョンに対応する最初の製品・サービスが市場に出て、最初の顧客を獲得する。最初の顧客の反応は重要、顧客からのフィードバックを受けて、次の製品・サービスの開発ターゲットが決められる。製品・サービスの世代交代が進むに従って、イノベーションは社会への影響度を増していく。世代交代の過程で、主役企業の交代も起こる。

以上がイノベーションの生成プロセスの概要である。

 

発想のきっかけ、動機

科学者ヴァネーヴァ・ブッシュの発想は科学技術の進歩と人類の未来に対する洞察から始まり、マイクロフィルムを見て、具体的なヒントを得た。これがパソコンやインターネット、あるいはコンピュータ・グラフィックに発展した。このようなスケールの大きいビジョンは大変に珍しい。

一般には、現に今あるものの本質的な欠点に気付いて問題意識を抱き、その解決のビジョンを描いた例は多い。たとえば、電話交換施設の破損による電話網の機能不全の解消がインターネットに、衝撃に弱い真空管式の電子回路の問題解決が集積回路に、時計の狂いの極小化がクォーツ式に、日本の新聞記者の原稿を書くスピードの遅さの改善が日本語ワープロに、などである。

上記のような問題意識に対して科学技術の新しい成果が新しい世界を開くヒントになった例は多い。液晶物質による動的散乱効果の発見が液晶ディスプレイのビジョンになった。光ファイバーも今使われている電線ケーブルの弱点に対しての問題意識に先駆的な研究成果が解決のヒントを与えた。炭素繊維も研究成果がビジョンを固めるきっかけを与えた。

既存企業の場合は、市場ニーズの変化の洞察や市場競争の上での危機意識が動機になる。クォーツ式腕時計やハイブリット車、宅急便など。また、ベンチャー企業では、生活者に潜在しているニーズへの気付きから新しい事業をひらめいたケースが多い。カップめん、カラオケなど。

 

ビジョン…創造的活動のベクトル合わせ

ビジョンは実現すべき理想のイメージを具体的に示すものである。その代表例がブッシュのMEMEX 構想。彼の描いたビジョンはITという壮大な社会を開いた。

 

ヴァネーヴァ・ブッシュとMEMEX…ITの世界をイメージ

ヴァネーヴァ・ブッシュ(1890~1974、米)はハーバード大、MITで学び、MIT教授となり、後に同大学副学長、工学部長を務めた。アナログ・コンピュータや音波探知器の開発等の実績がある。1940年、米国防委員会NDRCの委員長に就任、次いで大統領府科学研究開発局OSRDを創設、局長となって軍への科学者の協力体制を築くことに貢献した。ブッシュの強力なリーダーシップの下にマンハッタン計画(原爆の開発など)が進められた。

第2次大戦終了後、「Science:The Endless Frontier」と題する報告書を大統領に提出、国民の健康、安全保障、雇用確保にとって基礎研究の国による支援の重要性を訴え、政府に働きかけて米科学財団NSFを設立(1950年)、アメリカの強力な科学技術システムの土台を築いた。

彼は1945年7月、原爆投下の直前に「As We May Think」と題する論文を発表した。その中で、平和時の科学者がなにをもって社会に貢献すべきかを訴えようとした。彼は原爆開発に科学者を動員したことに若干の後ろめたさを感じていたようだ。

科学技術が進歩しても、人間には公表される膨大な科学の新知見をすべて読むことも、ましてや憶えることなどまったく不可能。このために人類の福利厚生の改善に役立つ知識を見逃している。これを解決する方法は情報をコンパクトに蓄積し、その中から必要な情報を相互に関連付けて探し出して表示する装置を開発することだと彼は訴えた。必要な要素技術は大体、揃っていると彼は言う。コンパクトな情報の保存はマイクロフィルムが、情報の表示にはテレビが使える、情報の関連付けには電話の自動交換やパンチカード・システムが参考になると言う。

彼のビジョンは今日のハイパーテキストそのものである。しかし、最初のデジタル・コンピュータ「エニアック」はすでに運用されていたが、コンピュータの可能性にはまったく触れていない。

ブッシュは未来の装置“機械化されたファイル兼図書館”をMEMEXと名前を付けた。記憶の拡張が語源。この装置は机状で、机の上には表示画面があり、キーボードとボタン、レバーが付いている。表示画面はマルチウンドウで遠隔操作も可能と具体的なイメージを描いている。直接、脳細胞と繋がる可能性も示唆している。そして、人類は戦争で滅びてしまう前に、人類の叡智を人々の幸福のために活用できる環境ができれば、文明の将来ははるかに楽しいものになると締めくくる。

この論文に触発されて、MEMEXの研究開発に賭けようと考えた若者が多数現れた。サザーランド、エンゲルバード、アラ・ケイらである。彼らはパソコンの基礎となるグラフィック・ユーザー・インターフェースGUIに必要な要素技術を開発した。アラン・ケイは「ダイナブック」という基本コンセプトを提示した。これらがパソコンの発明に繋がった。 インターネットの原型ARPANET開発のリーダーだったJ.C.R.リックライダーもブッシュの論文の読者である。

さらに、もう一人。ブッシュの教え子でブッシュと共にマンハッタン計画に参加したフレデリック・ターマンは、スタンフォード大学の工学部長になり、シリコン・バレー成立とその後の発展の基盤を築いた(後述)。ターマンはブッシュの「Science:The Endless Frontier」に触発されたのだろう。〔松本典明『メディアの考古学』〕

「第4の波」を起こしつつあるインフォメーション・テクノロジーITのほとんどすべてが、ヴァネーヴァ・ブッシュ1人のビジョンに導かれて生まれ、育った。一人の人間の思想の無限の力を思い知らされる好例である。

現製品の本質的な弱点の克服を究極の目標としたビジョンの例は極めて多い。液晶ディスプレイは“映画のような大画面テレビ”、クォーツ腕時計は“誤差を生じない理想のウォッチ”、シルクライク糸は“絹を超える合成繊維”、NC工作機は“複雑な曲面を自由に削り出せる加工機”、ジェット織機は“有ヒ織機の限界を超える”だった。

 

要素技術の開発、大学・公的研究機関の役割

スケールの大きいビジョンは、そのビジョンの実現を目指す研究開発の新しい潮流を生み出す。技術的可能性の検証とキーとなる要素技術の開発である。Memex構想はその典型。液晶ディスプレイや光ファイバー、炭素繊維などでも同じような現象が生じた。

この段階では大学、公的研究機関、企業の研究所が入り乱れて研究を競い合う。その中で、大学、公的研究機関が大きな役割を果たすケースが多い。競争の一方で、組織の壁を越えた協調・連携が効果を上げた例も多い。パソコン、インターネットなどIT関連の先端技術はシリコン・バレーの開かれた環境の中で育った。

日本でも、液晶ディスプレイ、NC工作機、ジェット織機、光ファイバーなど、技術開発で世界をリードできたのは公的研究機関も含めて企業間連携の賜物であった。国が中心となった産学官連携の大型共同研究開発プロジェクトの成功例も日本にはある。合成繊維研究協会と超LSI共同研究組合など。

 

合成繊維研究協会…世界初の産学官連携プロジェクト

日本は合成繊維の工業化では、欧米にそれほど遅れを取らなかった。しかも、国産技術でビニロンを成功させ、ナイロンもカローザスの発明したナイロン66ではなく、国内で独自に開発したナイロン6であった。これは大規模な産学官連携の成果であった。

シュタウディンガーが高分子説以来、絹のような合成繊維の発明を目指す研究が欧米で活発化した。繊維産業が主力の日本でも、大学、繊維系企業の研究室で早くから研究は行われていた。

1938年、デジュポン社(米)はナイロンの開発に成功したと発表した。絹の輸出に頼るところの多かった日本はとくに、衝撃が大きかった。これに刺激された、産学の協力でビニロン、ナイロン、アクリル繊維などの基礎技術が生まれつつあった。

1941年、産学官の共同研究体制を強化し、資源の集中投資によって研究開発を加速することを目的に、商工省、繊維業界の提唱で「日本合成繊維研究協会」が設立され、大学の研究者を含めて国を挙げての研究開発の組織化が行われた。協会の合意によって、ナイロンは東レが、ビニロンはクラレが開発を担当することになり、国の資金も投入されて、開発と試験生産が行われた。日本独特の合成繊維ビニロン、日本オリジナルのナイロンは、これによって誕生したのである。
1943年、東レは絶縁用のナイロン樹脂の生産・販売を始めた。〔東レ〕

合成繊維研究協会は戦後、高分子学会に発展した。

 

超LSI共同研究組合…アメリカの技術を超えた

1980年代初め、世界のコンピューターをリードしてきたIBMは、他社の追従を完全に振り切ろうと、次世代コンピュータ、“フューチャー・システム(FS)”構想を打ち出していた。

これに対抗して、通産省は国産コンピューター・メーカーが生き残るための戦略的手段として超LSIの研究開発が死命を制すると考え、1976年、鉱工業技術研究組合法に基づいて、超LSI技術研究組合の設立を認可した。構成メンバーは富士通、日本電気、東芝、日立、三菱電機の5社。大学は参加していないが、通産省電子総合研究所は所長を始め多数の研究者を出向で派遣している。4年間に、通産省補助金300億円を含む総額700億円の資金が投入された。

この研究組合の最大の特徴は、直轄の共同研究施設(日本電気研究所内)を設けたことで、電総研をはじめライバル関係にあった参加5社から常勤出向者約100人が一堂に集められたことである。異なる組織が共同で研究開発を行う場合、従来は殆どが分担持ち帰り方式で研究成果はフェンス越しに渡すというスタイルを採るが、この場合は完全に一つの組織体として研究開発を展開した。電総研出身の垂井康夫が研究所所長に就任し、優れた研究構想の下に中立的な立場で研究をリードした。研究テーマの選択は将来の超LSI技術の基本となる基礎的で、各社に共通するものが原則として選ばれた。

結果的に、超LSI技術研究組合は大成功であった。この研究成果をベースに我が国の半導体産業は一挙に国際競争力を高め、世界市場でのシェアを上げた。

成功要因としては、タイミングが良かった(研究すべき課題は従来技術の延長ではなく、まさに革新技術の領域で各メーカの間に技術の差が殆どない時期だったこと、したがって、各社が秘密にする必要がなかったこと)、優れた人材と豊富な資金が集められた(出身会社の名誉をかけて頑張った)、テーマの選択が良かった、リーダーが優れていた(電総研が優秀で公平にリーダーシップを発揮した)などが関係者の間であげられている。その背景には、IBMのFS構想が研究の方向付けの優れたビジョンを提供してくれていたという事情があると考えられる。〔NEC中央研究所、東芝研究部門〕

超LSIプロジェクトの成功は欧米にも大きな影響を与え、アメリカは当初、“日本株式会社”と批判したが、79年、国防総省を中心にVHSIC(超高速集積回路)計画をスタートさせた。ドイツ、フランス、イギリスでも国ぐるみのプロジェクトが始まった。日本でも、79年に電子計算機基本技術研究組合が設立されている。台湾の半導体産業の国際的な競争優位も台湾内の産学官の戦略的な連携とアメリカ企業の協力によって築かれた。

しかし、日本ではそれ以降、国レベルの共同研究開発プロジェクトでこのような成功例はない。

 

基本コンセプトの創造、要素技術の選択

基本となる要素技術が形作られ、技術的可能性を実証するプロトタイプが試作されると、市場の動向などを洞察して、製品としての基本コンセプトが創出される。これがアバナシーの言う「ドミナント・デザイン」に当たる。

パソコンの場合は、ダイナブック構想“持ち運び可能なA4版の子供でも買える個人用コンピュータ”。液晶ディスプレイは“外部信号を受けて文字および画像をカラーで鮮明に表示する民生用の平らなパネル”であった。日本語ワープロでは、“手書きよりも速い入力、ポータブル、電話線で電送可能”がコンセプトの基本要件。宅急便は“全国どこでも翌日配達”、クォーツ腕時計は“すべての要素で機械式を上回るウオッチ”、シルクライク糸は“絹を超えるファッション素材”であった。

ドミナント・デザインは重要な要素技術を選択し、いわゆる「デザイン・ハイアラキー」が構成される。一般普及を狙う製品の場合、将来、コストが低下する可能性の大きい要素技術が意識的に選ばれている。パソコンのデザイン・ハイアラキーの基本はグラフィック・ユーザー・インターフェースGUFである。日本語ワープロはカナ漢字方式を採用した。iモードはインターネットとの親和性を重視してHTML方式をあえて採用した。

光ファイバーの場合は、研究で確認された実用レベルの技術水準が基本コンセプトになった。

 

第1世代開発ターゲットの設定と開発

基本コンセプトの実現を目指して要素技術の開発が進むと、最初の顧客を想定して第1世代製品の開発ターゲットが定められ、それに向けて開発を集中する。新市場創造型では第1世代の製品は技術的に基本コンセプトの要件の一部でも満たせる段階で上梓されることが多い。基本コンセプトに対するマーケットの反応を早く確かめたいからである。

新市場創造型の場合、最初の顧客はごく少数、コストも高くなるので、マーケットを絞り込む必要がある。第1世代のパソコンはシリコン・バレーのコンピュータ・マニア(ホーム・ブリュー・コンピュータ・クラブ)を狙った。クォーツ腕時計の場合は、金持ちのマニアに狙いを定め、あえて金側にして高級品として売り出した。炭素繊維では特殊装置の高級材料分野やプロ用釣竿から入った。液晶ディスプレイは既に市場が開けつつあった電卓やデジタル・ウオッチをターゲットにした。iモードは高校生男子を想定した。

第1世代の製品が売れて始めてイノベーションは次に繋がる。最初の顧客の反応が第2世代以降のイノベーションの方向を決めることになる。

 

マーケティングと経営

新市場創造型や市場高度化対応型でも提案型の場合は、顧客を確保するために基本コンセプトを広く知ってもらう必要がある。マーケティングはイノベーションの成功に大きく影響する。マーケティング戦略との関連で経営システムの革新も必要になることもある。

ナイロンは女性用ストッキングで、“絹よりも美しく、クモの糸よりも細く、鉄よりも強い”ことを消費者に印象付けた。アップルの成功はスティーブ・ジョブズの天才的なプレゼンテーションとマーケティングに強い経営者のスカウトによるところが大きい。エプソンは全世界の時計流通業者に対してクォーツ・ウォッチの取り扱いに関する講座を開催するなど、流通業界の構造改革を支援した。カップヌードルの売り込みは夜の職場、道路工事の現場や消防署の夜勤から始めた。新合繊は化繊協会を中心に業界挙げてのキャンペーンが奏功した。

ハイブリット車、宅急便などはトップ・マネジメントの強い意志が開発と事業化をリードした。

 

抵抗と障害

新市場創造型の場合の抵抗と障害はその市場価値を専門家ほど理解してくれないこと。“一利を興すは、一害を除くに如かず(耶律楚材の言葉、ジンギスカンの側近)”は、ビジネスの世界でも一般社会でも、新規な試みを抑圧する強烈な論理である。

パソコンはゼロックスのトップが事業化を認めなかった。インターネットは日本の電子通信業界の大御所連が電気通信システムの主流にはなりえないと評価し、厄介者扱いをした。iモードは最初の発表のとき、IT分野のマスコミ、評論家がその価値を理解できず、ほとんど無視した。クォーツ腕時計では、社内の製造現場、営業現場が既存のシステムに合わないとして抵抗した。宅急便では、トラック輸送のプロが全員反対。いずれも既に確立している基本コンセプトや価値体系からはみ出し、あるいは、それらの価値を否定するものだったからである。

基本コンセプトを目指す技術開発がはかばかしく進まない場合、企業が研究開発から撤退することは珍しくない。これは投資効率を考えた経営の判断である。液晶ディスプレイ、炭素繊維では、欧米の企業はほとんど途中で撤退した。企業の中では、研究開発投資の経済効率の評価がもっとも決定的な抵抗、障害になる。

クォーツ腕時計、炭素繊維など困難度が高く時間のかかる技術開発に成功した企業は経営トップの理解と支援が得られていた。トップや周囲の関係者を説得し抵抗と障害を突破していくことが開発リーダーの重要な責務である。
宅急便のように、国による規制も大きな障害となることもある。

【目次】イノベーションとは何か

電子書籍の出版に興味がある方へ

「JOURNAL & BOOKS」では、電子書籍の制作・出版をサポートしています。

詳細につきましては、下記のサービスメニューをご確認ください。