近代科学の成立と技術の変質

技術とはなにか

科学技術と一口で言うが、科学と技術はその本質において違っている。サイエンス・アンド・テクノロジー、つまり科学・技術と書くのが本来正しい。

技術とは、人々の生活上の思い(欲求や願望)を満たすための財やサービスを作り出す上で必要な知識、技能、道具を体系化したもの全体を言う。技術のもっとも重要な特性は“実践的行為における確実性”〔宗像正幸『技術の理論』〕だと言われている。人間がコミュニケーション能力を発達させるに従い、人間社会の持つ技術は新たな経験が付加され伝承されることによって、着実にその可能性を広め、確実性、再現性、信頼性を高めてきた。これが技術の進歩である。

技術は人類の歴史と共に存在し進歩してきた。“科学を持たない文明はあっても、技術を持たない文明はありえない”〔村上陽一郎『文明としての科学』〕のである。

 

ヨーロッパの技術文明と近代科学の誕生

西ヨーロッパが世界史に登場するのは10世紀以降である。ギリシャ、ローマの文明を継承してはいるが、決して古くはない。この新しい文明が今や世界標準になってしまった。機械技術とレンズ技術を発達させたことがヨーロッパ文明の優位を築く基盤になった。

棒テンプを使う機械式の時計はヨーロッパ独特のもの。機械技術は時計と共に発達し、時計塔を中心とした都市文明を育み、人間や動物の動きを正確に模したアートマター(カラクリ人形)を生み出した。これが蒸気機関や飛びヒ織機の発明にもつながった。レンズを使いこなす技術から望遠鏡や顕微鏡が生まれた。これらの器具が近代科学の成立に大きく貢献した。

世界の数ある文明の中で、ヨーロッパ文明だけが近代科学を生み出した。仮説の設定と実験・観察によって得られた客観的事実に基づく数学的論証の繰り返しで自然界のメカニズムを体系的に理解しようとする近代科学の方法は、15~17世紀にかけて西ヨーロッパで興った「科学革命」の過程で確立された。

数学的論証に重きを置くヘレニズム文化の影響、自然を数学で書かれた第2の聖書とみなすキリスト教の教義、それに教会や支配階級が奨励した精密な機械・器具製作の伝統が近代科学の母体となったと考えられている〔バナール『歴史としての科学』〕。もっとも長い歴史を持ち、現代にまで及んだ中国文明も自然現象、薬学や医学の分野では実践的な知識の体系化が進んだが、数学的記述による論理化と実験による検証は行われていない。

とくに、キリスト教の影響は大きく、ケプラーは“私は自然という書物の中において認められることを望み給う神の栄光のために惑星運行の法則を発表する”と言い、経験主義を確立したフランシス・ベーコンは“科学によって人間の状態は改善され、自然に対する人間の力は拡大される。人は堕罪によって罪なき状態から堕ち、被造物に対する支配力を失ったが、この世においても幾分は改善され得る。前者は宗教と信仰によって、後者は技術と学問によってである” 〔ベーコン『ノヴム・オルガヌム』〕と言っているように、科学の研究は神を称え、人類を救済するという崇高な使命感をもって行なわれていた。

 

科学者という新しい職業

「科学者」あるいは「研究者」という職業が生まれたのは、近代科学が社会的制度として確立した19世紀後半、ヨーロッパにおいてである。初めてScientistという言葉が英語に登場したのは1840年頃のことだそうだ〔村上陽一郎『科学者とは何か』〕。職業人としての科学者の責務は、近代科学の方法に従って研究を行い、結果を論文として発表することである。

科学者たちは学会という専門家の共同体を形成し、社会的に大きな影響力を発揮するようになった。科学者の共同体は元々、閉鎖的な職能集団ではなく、お互いが自由に競い合うことを前提としていた。

技術を支える職人たちは、古くからどこの社会でも、その職業的地位を認められ、徒弟制度という閉鎖的な職能集団を構成していたらしい。しかし、科学的技術が優勢になると共に、集団の閉鎖性は失われ、お互いに自由に競い合うようになった。

「エンジン」engineは古くは道具や武器を意味する言葉だったが、その後、工夫して作ったものというような意味になり、ワットの蒸気機関が現れると、それをエンジンと言うようになった。そして、蒸気機関を製作・操作・修繕改良する人をエンジニアengineerと呼ぶようになった。技術者(エンジニア)は創意工夫で新しい機械を作る、あるいは扱う専門家、高度の工夫のできる人、科学的技術に長けた人であって、伝統的な職人craftmanとは異なる職業人として広く認知されるようになった。ワットは職人から技術者になったのである。

近代科学の成立が「科学者」「技術者」という新しい職業を生み出したのである。

 

経験的技術から科学的技術へ

近代科学の知識の累積は、経験の蓄積に依存していた技術「経験的技術」を科学的知識に裏づけられたが技術「科学的技術」へと変質させた。この科学的技術が工業の基盤となった。「科学的技術」と「経験的技術」とは多くの点で異なっている。

図表2-2-2 経験的技術と科学的技術
(作成:原 陽一郎(亀岡、古川「イノベーション経営」放送大学教育振興会)

経験的技術化学的技術
進歩の動機新たな工夫、成功・失敗の経験新しい科学的知識、発見
進歩の方向モノつくりにおける人の身体能力の補強と高度化(力と技)モノつくりにおける人の身体能力からの開放
進歩のプロセス経験の蓄積からの直感的試行錯誤理論的考察に基づく試行、理論的実証
蓄積主観的・定性的・属人的な知識・技能原理と方法の理論的で標準化された記述
伝承・移転人から人への伝授、道具、器械文書・資料による普遍化、知能化機械
技能への影響技能の向上が大前提、技能者のプロ化技能を不要とする方向、技術の大衆化
波及適用対象は限られる新たな対象に応用が可能

 

もっとも重要な違いは進歩のスピードにある。偶然と試行錯誤に頼って進歩する「経験的技術」の変化は極めて緩慢で、人はその一生の間に技術が進んだと感じることはほとんど無かったに違いない。「科学的技術」は科学的知見に基づいて頭の中で新しい技術を考え出せるし、実用性も短時間で検証できる。「科学的技術」は比較にならない速さで進歩する。

近代科学が技術の世界に新たに持ち込んだ最大のものが電磁気の応用である。自然界で電磁気的な現象は放電現象や静電気などごく限られている。この経験だけからは現在の電気工学、電子工学、通信技術は生まれない。これらはすべて科学の理論から誘導された。

技術進歩の速さは人口の推移で示される。1750年ころ、世界の人口は約7億人と推定されているが、それから250年後の今日、60億人に達する。人口爆発は技術進歩の加速化による。

図表2-2-2に纏めたように、「経験的技術」と「科学的技術」には進歩のスピード以外にも、本質的な違いがいくつかある。その中で、もっとも注意すべき点は技術がまったく逆の方向に進歩すること。「経験的技術」は技能(スキル)の高度化とプロ化を促進する方向に進むのに対して、「科学的技術」が技能を不要とする方向に進歩するということである。科学的技術は職人の技をブラックボックス化し、大衆化していく。「経験的技術」はエリート化の方向を歩んできたが、「科学的技術」の民主化を目指しているのである。

しかし、技術の世界は深い。職人の技に依存する領域はまだまだ多いことも事実である。今日の最先端の工業技術も農業技術も医療技術もすべて技術が程度の差はあっても、「科学的技術」と「経験的技術」の両方で成り立っている。

 

発明家の出現

「科学的技術」の特性は、新しい技術を科学的な知識に基づいて論理的に考え出すことが出来る点にある。古来、人類社会に大きな影響を与えた大発明、たとえば中国の4大発明といわれる羅針盤、火薬、印刷術、製紙などは発明者の名前は残っていない。長い経験の蓄積の上に出来上がったからである。歴史に名の残る発明家が登場したのは「科学的技術」の時代に入った産業革命期以降である。実験と論理思考の繰り返しで、短期間に確実性を担保した新しい技術を創り上げることができる。人々は創造性を発揮できる環境を与えられた。

もう一つの要素。イギリスで王と貴族の争いから制定されたマグナ・カルタ(1215年)から始まる自由権と私有財産権の確立の闘いはジョン・ロック(1632~1704年)によって、その正当性が広く認められることになった。その思想を受け継いで作られた国がアメリカである。私有財産権は知的財産にまで及んだ。特許法は15世紀初のイタリアに遡るが、近代的特許法の原型はイギリス議会が1624年に制定した特許法を経て、1790年のアメリカの特許法に到ってほぼ完成する。アメリカは特許局を設け、特許審査委員長と専属スタッフも置いた。イギリスもアメリカの影響を受けて1852年に特許法の大改正を行っている。その結果、イギリス、アメリカでは特許が爆発的に増えたとバーンスタイン(『豊かさの誕生』の著者)は言っている。

特許法は一般庶民に発明によって大金持ちになれる夢を与えた。発明家という新しい職業を生み出した。産業革命期の重要な発明にも、特許法が重要な役割を果たしている。

 

豐田佐吉…日本の発明家第1号

日本で発明家を自分の職業に選んだ第1号は豐田佐吉である。彼は若いころ大きな構想の下に彼自身の一生の戦略を描き、冷徹な論理に基づいて、その具体的目標を世界最高級の織機の発明に定めた。

豊田佐吉の自伝には次のように書かれている。

幸いに此の世に生を受けたる以上、何か有意義に一生を尽くしたしと、稚心(15~16歳のとき)にもつくづく国家のことを思い、・・・・・、土地の埋立開墾が…最も国家的事業なりと思惟したり。退きて熟考するに、否々然らず。・・・・・又考慮に考慮を重ねたりしに偶々明治18年(19歳のとき)特許条例発布せられたり。・・・・・此れ即ち、太平洋に島を築くと同様なる事業を奨励する勅令なり。・・・・茲に漸く方針を定め、発明に志したる次第なり。

因みに発明とは、全く此の世に無き事柄を頭より揉み出すことにて、・・・・・全く我が心身を苦しめて、新事実を搾り出すことなり。”そして、欧米の文明の基礎は動力機械によると見て、新しい動力機械の発明を考えたが、専門の学問に欠ける佐吉には不可能と判断して、 故に之は宿題とし、何か入り易く、幾分にも国家の為に成るものより着手せんと思い、種々考慮の結果、力織機を発明せんと志を決せり。

日本は明治維新後、導入したヨーロッパの近代紡績機械に合わせて原料綿を外国産に切り替えたため、伝統的な綿農業は衰亡していた。増加する国内綿織物の需要を賄うための原綿の輸入は経済の負担になっていた。彼は綿糸布の輸出で綿花の輸入代金を相殺する綿業立国を考えた。これは日本の国土面積を3割増やすことと同じで、“帝国主義、軍国主義、侵略主義と呪詛さることなく、綿業立国による我が国の発展、真に偉大なりと謂うべき也。”と書いている。さらに、老婦少女の仕事である紡績の機械は進歩しているが、一人前の婦人の仕事である織物の生産機械について、“未だ西洋に精巧なる力織機無きものと思い、爰に専ら力織機発明に意を注ぎたり。これ将に明治18年(18歳の時)なり”と。

彼は独学で機械技術の学習を進めた。上野で開かれた内国博覧会の機械館に1ヶ月の間、朝から晩まで座り込んで機械とにらめっこをしていたエピソ-ドは有名である。

佐吉は優れた動力織機の開発を究極の目標としていたが、“力織機の発明は後日に譲り、先ず簡単なる階梯的織機を先とし、後に再び力織機は発明に帰る”という戦略シナリオを考えた。織布業の実態を調査研究して、当時の農家の副業的で貧弱な織布業では、いかに優れた機械でも高価なものは買い入れることは困難であること、さらに彼自身も技術を基本から蓄積する必要があることなどを考えた結果である。当時、フランスから輸入されていた手動のバッタン高機の改良から着手した。この成果が彼の第1号の特許「木製人力織機」で、片手で操作ができて熟練を要さず、生産性は1.5~2倍に高める優れものであった。

以後、次々と発明を完成させ、それを基盤とする事業会社も事業家の協力によって設立された。しかし、事業の経営には積極的ではなく、後に豊田紡織の社長に就いた程度で、経営者としての実績は乏しい。むしろ、営利と発明の矛盾に悩み、経営トップと対立することが多かった。

アメリカに渡ったのは自らが共同出資をし、自らの発明の事業化で成長した会社(後の豊和工業)と訣別し、アメリカで新天地を拓こうと考えたからである。しかし、アメリカで当時、最先端の自動織機を見て気が変わった。佐吉から見れば、自動化の域に達していなかった。半年の後、再び日本に帰って理想とする自動織機の発明に挑戦することになった。そのときアメリカで、フォード・システムや研究開発のやり方を知り、自動車の将来性を感じ取ったことが、佐吉のその後に大きな影響を与えた。

佐吉の人生の戦略目標だった「豊田式G型自動織機」は、高速運転中に少しもスピードを落とすことなく円滑にヒを交換する自動ヒ換装置を有すると共に、織物の品質を高めるための積極的縦糸送り出し装置、縦糸・横糸の切断自動停止装置など自動化・保護・安全装置を備えたもので、彼はこれを“ニンベンの付いた自働化”と言った。従来の織機よりも生産性は約15倍高く、高品質も得られるもの。G型の出現に世界の繊維機械業界、織物業界は、これをマジック・ルームと称賛した。これだけの自動化を機械制御だけで実現した。機械の動きはまさに精巧なカラクリの連続である。

繊維機械のトップ・メーカー、プラット(英)の要請で特許実施権を与えている。豊田自動織機の技術者の言によると、G型自動織機の基本設計はその後50年にわたって変わらず、これを越える有ヒ型織機は遂に出現しなかった。G型自動織機は世界の歴史に残る発明の一つとしてカートライトの力織機、スチーブンソンの蒸気機関車、ロケット、アポロ10などと共に大英博物館の「現代社会の形成」ギャラリーに永久展示されている。

綿業立国は佐吉の発明事業の根幹をなすビジョンであったが、佐吉の発明は幾度となく国策に貢献した。日清戦争終結後、日本政府は中国東北部で発行した多額の軍票の回収のために中国市場に対して綿布の輸出振興を策したが、これを可能にしたのが佐吉の発明した「木製動力織機」であった。さらに、「鉄製動力織機」の発明と普及によって、日露戦争後、日本の織布産業は大いに発展した。また、大正末、国際労働会議の決議に従って深夜労働が禁止され、機械の性能向上が叫ばれていた時期に「自動織機」が完成し、繊維業界はこれを大いに歓迎した。このようにして、我が国の綿織物産業は絹製品、紡績糸に続いて国際優位を有する産業に成長発展し、以降1960年代まで繊維製品はわが国の輸出の中核を担った。

佐吉はアメリカで自動車の時代の到来を感じた。フォード生産システムを学び、織機の生産にフォード式の移動生産方式を採り入れた。佐吉は息子、喜一郎(東大工学部出身で豊田紡織勤務)に“おれは織機をやった、お前は自動車をやれ”と勧め、プラットから受け取った技術料全額(200万円)を渡した。これが今日のトヨタ自動車の起源である。

佐吉は“そこの障子を開けてみよ、外は広いぞ”“できないと言う前にまずやって見ろ”“創意と工夫を盛んにせよ”と周囲の者によく言っていた。そして、“研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし”は豊田綱領の一つになっている。“予が今日迄の生涯は随分波瀾曲折ありて、悪戦苦闘。多くは失敗の歴史なりとす”が彼自身の一生の総括である。

独創的な自働ヒ替え装置を発明したとき“此の如き創造的なものは、先ず自ら之が製作に従事し、深甚の注意を払い、幾多の実験を重ねたる後に非ざれば、到底完成せしむる能はず。之が製作を他に託するが如きは、決して為すべからざる処にして、必ず蹉跌の基をなし、噛臍の悔を残すべく、大いに戒むべきことなり”と後輩に言い残している。とくに発明品に対する製造物責任の意識が強く、“創造的なものは完全なる営業的試験を行うに非ざれば、発明の真価を世に問うべからず”“製作を完全にし、十分営業的試験を為しその成績充分に挙らざる間は、決して販売すべきものに非ず”と書き残している。環状織機は重力を利用してリングに沿ってヒを移動させる、極めてユニークな省エネ型超広幅織機であったが、完全なる営業的試験ができなかったため商品化されなかった。

〔トヨタ産業技術記念館、豊田佐吉『発明私話』〕

豐田佐吉の“ニンベンのついた自働化”ば“ジャスト・イン・タイム”の原点である。日本の独特の生産システムは佐吉から始まったと言っても過言ではない。

発明家と起業家は違う(シュンペータ)。佐吉はその例である。トーマス・エディソンも彼の手によって事業化したのは電灯システムだけで、多くの発明は他の人の手で事業になった。

 

エジソンの発明工場…発明ビジネス

トーマス・エジソンは稀代の発明王である。彼の発明は電気機械、多くの家電製品を発明して、電気の時代を切り開いた。しかし、発明家というよりは有能な研究開発マネジャーだった。

幼い時から好奇心と探求心が異常に強く、社会からは疎まれるタイプだったので、母親の支援で自宅に実験室を作って、実験に没頭する青年期を送った。22歳の時、特許を取った株式相場表示装置のライセンス料が予想外に高額だったことで、発明を一生の仕事にすることになった。

1876年、29歳のとき、エディソンはメンロ・パークに研究所を設けて、“小さな発明は10日に一度、大きな発明は6か月に一度の割合で生み出す”と宣言した。彼は科学者、技術者、研究補助者、機器メーカーなどとのチームワークで発明の生産性を高めようとした。エディソンの研究所は当時、もっとも実験設備が整っていると言われて、大学の研究者にうらやましがられた。

彼のもっとも重要な発明は電灯システム(発電機、送配電装置、電球、電力計など電灯の事業化に必要なすべての装置、機器類)の開発。ガラス職人、機械工、物理学者、化学者など40数人のプロジェクト・チームを組んで、指揮を執り、最初にアイデアを発表してから4年を経ずして、商業的な成功にまで到達した。この時、事業化のために設立した会社がエディソン電灯会社(後のGE)である。

エディソンは優れた発明がビジネスになることを広く証明した。そして、彼の発明工場は企業の研究所のモデルとなった。

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