長期の円高トレンドと貿易収支

円高は40年間続いた

1971年8月、アメリカのニクソン大統領は突然、ドルと金の交換停止を宣言した。第2次大戦後一貫して続いてきた固定相場性(ブレトンウッヅ体制)がこの瞬間に崩壊した。その後、一時、スミソニアン体制と呼ばれる新しい固定相場制が作られるが、先進諸国の通貨当局がこれを支えきることができず、結局、1973年2月を境に完全なフロート制に移行する。360円/ドルで固定していた円とドルの交換レートは一挙に265円/ドル前後に上昇したのである。

為替レートの変動は直接的に国際的な交易の条件を変える。円高は確実に日本製品の国際価格を上昇させた。日本で360円の製品はアメリカで1ドルだったのが、300円/ドルになれば、1.2ドルに価格が上がることになる。日本の製品の国際競争力は一挙に失われる。これが経済の論理である。この事態に直面して日本の経済界は大混乱に陥った。これがニクソン・ショックと呼ばれるものであった。当時のマスコミは、“「円切り上げ」不況がやってくる”、“熱いトタン屋根の上の日本経済…日本は決断を迫られる”など、強い危機意識をあらわにした。

ニクソン・ショックと同じ頃、オイル・ショックも起こっている。1973年、第4次中等戦争をきっかけに、原油価格は2ドル/バーレルから2年間で12ドル/バーレルに急騰したのである。原油、天然ガスの価格はその後も上昇を続けた。中東の安い原油に依存して国際的にもっともエネルギー・コストの安かった日本はエネルギー資源の海外依存度が高いことが災いして、エネルギー高コスト国に立場が変わってしまった。

1973年を境に、日本はコスト的に有利な国から高コスト構造の国に暗転した。人件費もエネルギー・コストも土地代も国際的にもっとも高い国になってしまった。日本に立地する企業は国際市場でポーターの言う「コスト・リーダー戦略」を採ることはまったく不可能となったのである。この激しい構造変化によって、実際に1974年に大不況が日本を襲った。

ニクソン・ショックとオイル・ショックは日本経済の一大転換点になった。この時期を境に日本経済の成長率はそれ以前の10年間の平均が9.3%であったのに対して、それ以降の10年間の平均は3.6%。そして、産業構造、エネルギー消費構造も大きく変わった。市場は成熟し高度化した。

その後、2000年に至るまで円高トレンドは続いてきた。40年間の約7割の期間は円高が進んだのである。その間に急激な円高(1年以上にわたって年率10%以上の円レートの上昇)は7回ほどある。その度に、産業界は悲鳴を挙げ、マスコミは“日本経済は破滅”と騒いだものだった。1985年から95年の10年間はとくに強烈で、159円から84円まで上昇した。このような過酷な経験をした産業界は世界の中で日本以外にはない。この長期にわたる円高トレンドは、市場競争とイノベーションの関係を解明する貴重な社会実験となった。

 

円高でも輸出は増えた

本来、為替レートの変動は貿易収支の偏りを調整する機能を持っている。2国間で輸出に大きな偏りが生ずると、決済通貨の需給バランスが崩れ、輸出に偏った国の決済通貨が不足し相場が上がることになる。こうして輸出偏重国の通貨の為替レートが上がると、その国の投入要素コストはその分上昇するから、比較優位は減殺され輸出は減ることになる。円高になれば、当然、国際市場で価格が上昇する製品の輸出は減り、国内市場で価格が下がる製品の輸入が増えるはずである。そのように経済学者の誰もが考えた。

ところが、長期にわたって、円高はそのような貿易不均衡の調整機能は働かなかった。日本は円高トレンドの中で貿易収支の黒字をずっと維持してきた。とくに80年代に入ってからは増えている。これはなぜか。

日本のエコノミストの中には、貿易収支の黒字が続く理由を、IS理論を持ち出して、国内の投資が少ない結果で、産業の国際競争力とは関係がないと言った人もいた。しかし、個々の製品系列の貿易収支は日本製品の国際市場における評価と、輸入製品の国内市場での評価の結果なのである。

図表4-1-1 円レートの推移と貿易収支の水準

2011年以降、貿易収支はついに赤字に転落したが、円高の影響以外に原発の停止などの特殊要因で輸入が急激に増えたことが大きかったと見られている。

1970年から93年までの為替レートの推移と輸出額、輸入額の推移を調べて見ると、輸入額は円高シフトに2年程度のタイムラグを伴って連動しているのだが、輸出額は円レートとは無関係にほぼ一貫して増加を続けていた。つまり、全体で見ると日本が輸入する製品については、価格要素が強く、生産要素コストの相対的上昇が日本製品の比較劣位をもたらしたのに対して、輸出製品については、国際市場での非価格要素の影響力が強く、生産要素コストの相対的上昇が競争力に大きな影響を与えなかった結果と推測されるのである。

図表4-1-2 為替レート推移と輸出額、輸入額

しかし、個別の産業を見ると、円高シフトの影響が経済の論理どおりに働いた産業もある。その典型が繊維産業。円レートと繊維製品の貿易の偏り係数の推移を対比すると、その動きは見事に一致する。つまり、繊維製品については為替レートの推移と歩調を合わせて国際競争力が低下した。繊維製品は全体として、国際市場においても、国内市場においても価格要素が競争上大きな影響力を持っていたため考えられている。

図表4-1-3 円レートと繊維製品の貿易の偏り係数

ニクソン・ショック、オイル・ショックから生じた大規模な不況と構造変化の圧力に対処するため、1978年、国は「特定不況産業安定臨時措置法(通称、構造不況法)」を制定した。この法律は国際競争力を失って消滅、空洞化すると想定された業種の構造的転換を支援するものだったが、法律としては珍しく対象となる業種が最初から指定されていた。その筆頭が合成繊維、以下、紡績、電炉、アルミ精錬、合金鉄、造船、化学肥料など。

この中で紡績、アルミ精錬、化学肥料は衰亡の一途を辿ったが、他の業種は競争力を維持した。とくに、合成繊維と造船は、その後も一貫して高い国際競争力を保ち、技術開発で世界の業界をリードしてきた。なぜそのようなことが出来たのか。

 

国際競争力とは何か

「国際競争力」という言葉は、少なくても日本では長い間、一般に使われてきた。為替が変動相場制に変わった1970年代後前半以降、打ち続く円高トレンドの中で、日本の産業の「国際競争力」は繰り返し産業界やマスコミの議論の対象になってきた。

しかし、「国際競争力」という言葉は経済学の専門用語には存在しない。正統派の経済学者は巷間で使われる国際競争力と言う言葉に嫌悪感を持っている。たとえば、小宮隆太郎(東大名誉教授)は“国際競争力という言葉を使う人は大体において国際貿易の基礎理論やフロート制下での国際収支理論を理解していない”と言っているし、P・クルーグマン(スタンフォード大教授)は“国家が直面する経済問題は他の諸国との比較における相対的な生産性ではなく、あくまでも国内における生産性の向上だけの問題、国際競争力という概念は良く言えば掴みどころのない概念、悪く言えば無意味な言葉”と書いている。

しかし、「企業の(国際)競争力」「産業の国際競争力」という言葉はある概念を伴って一般に使われてきた。これまでにタイトルに国際競争力という言葉が入っている本は実際にたくさん出されている。

「国際競争力」とは、国際市場における事業の競争力を一般に意味する。グローバルに事業を展開する企業にとっては、わざわざ国際をつける必要はない。議論の対象となる国際競争力は、日本に立地するある産業の国際市場での競争優位性を言っている。つまり、貿易の観点からの議論である。私たち東レ経営研究所は「産業の国際競争力」を、“ある国に立地する特定の産業が自由な国際市場において発揮する相対的な競争力、その産業に属しその国に立地する個々の企業の相対的な競争力の総合されたもの”とした。常識的には輸出が多く輸入が少ない産業は国際競争力が強く、輸出が少なく輸入が多いものを弱いと見なしている。そして、この産業はなぜ輸出が多いのか、輸入が多いのかが議論されてきたのである。

 

「貿易の偏り係数」という指標

輸出、輸入の観点に立てば、日本に立地するある産業の国際競争力を定義することはできる。実際に国際競争力の評価に使われている指標には、貿易に関するデータが使われていることが多い。

私たち東レ経営研究所はこれらの中から、貿易の偏りを表わすものを用い、これを「貿易の偏り係数」と名付けた。計算は下記のとおりである。貿易統計から簡単に計算できる。

「貿易の偏り係数」=100×(輸出金額―輸入金額)/(輸出金額+輸入金額)

貿易の偏り係数70とは、輸出金額が85に対して輸入金額が15ということになる。つまり、国際競争力の議論は、ある製品系列について、このような偏りがなぜ生じるのかを、市場競争の観点で、その原因を解明することにある。

図表4-1-4は1995年時点での主要製品系列の国際競争力の水準を「貿易の偏り係数」で欄区分けしたものである。これは今日においても、大きくは変わっていない。

図表4-1-4 国際競争力の強い業種、弱い業種
(作成:東レ経営研究所)

図表4-1-4で明らかなように、機械系に国際競争力が極めて強いと見なされている製品系列が並んでいる。日本は今日でも、製造業のウエイトが高い国だが、その製造業の約半分が機械系4業種、一般機械、輸送用機械、電気機械、精密機械で占められている。ニクソン・ショック、オイル・ショックの後、日本では存続できないと心配された繊維産業の中にも、強い競争力を維持している製品系列がある。この命運を分けた原因はなにか。私たち東レ経営研究所はそのことに強い問題意識を持った。

【目次】イノベーションとは何か

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